■東叡山寛永寺3(室町時代だったら天台宗談義所に日蓮宗僧修学はあり得た)

 

寛永寺への参詣・見学は、上野駅公園口から上野公園を歩いて行くか、あるいは鶯谷駅から上野公園方面に歩いて行くか。いずれかが定番。「東の比叡山」という意味の山号・東叡山というくらいあって、中心堂宇は、比叡山延暦寺と同じ根本中堂。本尊も延暦寺と同じ伝教大師最澄自作の薬師如来像。

ただし、根本中堂の大きさは、比べものにならないほど、延暦寺のほうが大きい。

境内を見学していると、「寺務所」の看板が出ている堂宇を発見。「あそこに行けば資料があるかも」と思い、寺務所の中へ。すると私が寺務所に入ったと同時に、奥の方にピンポーンと呼び鈴が鳴り、奥から若い僧侶がすっ飛んで出てきた。「何か?

「寛永寺さんで出しておられる公式パンフか小冊子とかは、ありませんか」

「ございますが、有料です」

ということで、表題が「東叡山寛永寺」と書いてある小冊子を購入。予想に反して、思いもかけずに僧侶が出てきたので、宗学研究についての質問をしてみることに。

寛永寺も江戸時代は大伽藍を誇った天台宗の関東総本山。天台宗関連の宗学研究課題は、「室町時代の天台宗談所に、日蓮宗僧が入学・修学していたのかどうか」という点。そして

「日蓮本仏義とは中古天台教学の恵心流本覚思想のパクリなのかどうか」という点。

 

○「寛永寺さんにも江戸時代には天台宗談所があったのでしょうか」

僧「江戸時代にはこの寛永寺にも大伽藍がありましたので、僧侶が通う談所はあったと思います」

○「日蓮宗関連の古文書『富士宗学要集』等に、室町時代の富士五山のひとつ・大石寺の法主が修行僧だったころに、武州仙波(川越)の天台宗談義所で修学した、ということが書いてあります。

武州仙波の天台宗談義所とは、無量寿寺の中院・喜多院のことと思われます。天台宗談義所に他宗派の僧侶、日蓮宗関連の僧侶が入って修学したということが、あり得たのでしょうか。」

僧「私の個人的な見解ですが、室町時代だったらあり得たのではないかと思われます。今だったら、あり得ませんが。そもそも日蓮という人が、若かりし頃、比叡山で修学された方ですし、日蓮宗とは言っても、それは実質的に天台宗から別れてできたようなものです。ですかから、室町時代だったら、あり得たのではないかと思います」

 

かつて喜多院の僧侶にこれと同じ質問をしたところ、「それはあり得ないのではないか」という見解でした。今度は、全く正反対の見解だったので、私も驚きました。

寛永寺1 

○「かつて武州仙波の天台宗談義所では、恵心流天台口伝法門という教学が説かれ、これを聴聞した大石寺法主の6世日時、8世日影、9世日有、12世日鎮、13世日院が日蓮本仏儀を生み出したという説があります。もっと言うと、日蓮本仏義は恵心流口伝法門のパクリではないかという説です」

僧「その恵心流ということですが、恵心僧都のことでしょうか。恵心僧都でしたら浄土教の法門なんですが」

○「中古天台で己心本仏ということが説かれて、これが日蓮本仏義の元になったという説のようですが」

僧「それについては、わからないですねえ。比叡山の教学部でお聞き頂いたほうがいいと思いますが」

 

日蓮本仏義・恵心流パクリ説を言い出したのが日蓮宗の執行海秀氏。早坂鳳城氏、といずれも日蓮宗の僧であったため、私としては天台宗側の見解を聞いてみたかったのですが、こんな結果に終わりました。

それにしても寺務所の入り口を入った途端に、ピンポーンとインターホンの音がして、奥から若い僧侶がすっ飛んで出てきたのには、驚きました。応対も、割と親切に受け答えしてくれて、オープンな感じに見えました。

富士門流あたりの寺院に行くと、閉鎖的排他的な寺院、インターホンを押しても誰も出てこない寺院、僧侶が出てきても、なんだかんだ屁理屈をつけて回答を渋る寺院、ウソをついてまで追い出そうとする寺院、まあいろいろありました。

寛永寺の場合、私の質問に気軽に答えてくれて、好感度が上がりました。ここも参詣者が多い寺院なので、僧侶も応対慣れしているのかもしれませんが。

独善的な富士門流も、これくらいオープンに答えてくれたら、いいのですけどもねえ。

寛永寺25