■京都妙顕寺2(大石寺の客殿・勅使門は妙顕寺の客殿・勅使門のパクリ)

 

□京都妙顕寺客殿・書院・宝蔵・勅使門の配置が酷似している大石寺客殿・書院・宝蔵・勅使門

 

「アンチ日蓮正宗」「仏教宗学研究会」で大石寺の他宗派教義・本尊・化儀・堂宇のパクリ問題を取り上げているが、大石寺の客殿・勅使門は、京都妙顕寺の客殿・勅使門のパクリである可能性が極めて高いという結論に至っている。

大石寺の客殿と勅使門の配置は、客殿の前に勅使門が建てられていた。1964(昭和39)年の旧客殿の解体・大客殿の落慶、その後の大客殿前にあった大化城の解体、1989(平成元年)の大客殿前広場の造成等々の変遷を経て、客殿と勅使門の位置がずれたこともあったが、元々の位置は、客殿の前に勅使門が建てられていたものであった。

この大石寺の客殿・勅使門の配置とそっくりな寺院がある。それは、日蓮宗の大本山・妙顕寺である。京都妙顕寺とは、日蓮の京都布教の遺言を受け、日蓮門下では京都ではじめて布教をした日像が開祖になっている寺院である。

大石寺と京都妙顕寺は、客殿と勅使門の配置が似ているだけではなく、庫裡、大玄関、大客殿、勅使門、さらにその裏手の宝物殿(宝蔵)、書院の配置までそっくりなのである。

そもそも京都妙顕寺とはどういう寺院かというと、開祖・日像は、六歳の頃から日蓮に薪水給仕して、日蓮から経一丸という名前を授かり、本尊も授与されている。13歳のとき、日蓮の入滅に臨んで、日蓮から直々に枕元に呼ばれ、京都開教を遺命された。

1294(永仁2)年、日蓮の京都布教の遺命を果たすべく、京都に上洛。日像は、京都の街角にて辻説法を行い、たちまち京都の町衆から帰依を受けた。しかし比叡山延暦寺等々から排斥を受け、1307年(徳治2年)から1321年(元亨元年)までの間に3度京都から追放する院宣を受けた。

1321年(元亨元年)に追放を許されて、後醍醐天皇より寺領を受け、ここに妙顕寺を建立。さらに、1334(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受ける。

勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことだが、実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺のほうが数多い。勅願寺は全国で34ヶ寺あるが、天下の三戒壇の他は、天台宗、真言宗、臨済宗が大半で、日蓮宗で勅願寺になっているのは唯一、妙顕寺だけである。

妙顕寺2世・妙実は、1341(暦応4)年に妙顕寺を四条櫛笥に移転。

1358(延文3)年に大干ばつが起きたとき、天皇の勅願によって僧侶300人を従えて桂川のほとりで祈雨の祈祷を行ったところ、たちまち数日の間に雨が降って、山野田畑が潤ったことから、その功績によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された。これにより妙顕寺の寺勢は隆盛を極めた。

妙顕寺1






















ところが日蓮宗の京都における教線拡大を心良く思わない比叡山延暦寺の僧兵・衆徒が妙顕寺に攻め入ってきて妙顕寺を焼き討ちにしてしまい、妙顕寺宗徒は若狭国(福井県)小浜に一時的に避難する。しかし1393年(明徳4年)、室町幕府三代将軍・足利義満の斡旋と寺領安堵により、京都・三条坊門堀川に妙顕寺を再建し、名前は鎌倉・妙本寺の名前を移して妙本寺と称した。

このように京都・妙顕寺という寺院は、日蓮宗、法華宗、富士門流等々の全日蓮門下においては、京都布教の先駆けであり、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇が日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜せしめた特別な存在であった。

その京都妙顕寺と大石寺が、客殿と勅使門の配置が似ているだけではなく、庫裡、大玄関、大客殿、勅使門、さらにその裏手の宝物殿(宝蔵)、書院の配置までそっくりになっているというのは、まことに注目すべき事である。

1432(永享4)3月、大石寺9世日有が、京都天奏で上洛した時、京都妙顕寺は比叡山延暦寺とは厳しい対立関係にあったものの、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇から日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜されて、大隆盛期にあった。大石寺9世日有自身も、自ら勅願寺について、さりげなく触れている箇所がある。

「第五段本書云く 又云く国王の御寺を勅願寺と号するなり。将軍の寺をば祈願寺と号するなり」

(日有御物語聴聞抄/堀日亨編纂『富士宗学要集』第1p193)

 

京都仏教寺院の本尊や化儀をパクった日有が、大石寺に客殿や勅使門を建てるに当たって、その配置をどこの寺院の配置を真似るだろうか。はやりそれは、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇が日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜せしめた京都・妙顕寺の堂宇の配置なのではないか。

大石寺9世日有が京都天奏に成功して、仮に日有の申状が時の天皇の元に伝奏されたとしても、それくらいで大石寺が天皇の勅願寺になったりするなどということはあり得ない。あり得ないことだが、大石寺9世日有としては京都から大石寺に帰った後、大石寺の宗徒の前に京都伝奏の答えを出さなくてはならない。

「法主自ら天奏に行ってきた。天皇御帰依の時には、大石寺に勅使がまみえる。我々は勅使をお迎えするときに備えて勅使門を建て、おもてなしするための客殿を建てておかなくてはならない」

日有天奏の留守を預かっていた大石寺僧俗は、法主自ら天奏に行ったのだから、明日にでも勅使が大石寺に来るのでは、と首を長くしている。まさにそれが、大石寺に絶対に来るはずのない天皇からの勅使を迎えるためと称する勅使門と客殿である。

勅願寺でも祈願寺でもなく、公認宗派でも何でもなかった大石寺に、間違っても天皇の勅使がやってくるなどということは絶対にない。しかし日有としては、天奏の留守を預かっていた大石寺僧俗を納得させるために勅使門・客殿を建てる必要があったということだ。まさにそれは京都に実在していた日蓮宗で唯一の天皇の勅願寺になっていた妙顕寺のパクリということである。

その証拠は、大石寺古来の庫裡・大坊・宝蔵・書院・客殿・勅使門の配置が、京都妙顕寺の庫裡・大坊・宝蔵・書院・客殿・勅使門の配置と、ほとんど同じに等しいということである。

妙顕寺32境内古図2