■天母山1(戒壇論争で登場する天母山)

 

日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の関係者であれば、この「天母山」という名前は、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。これは天母山と書いて、「あんもやま」と読みますが、これは日蓮正宗、創価学会、顕正会の間で激しい論争が行われた、あの「天母山戒壇説」で、あまりにも有名な所である。

天母山戒壇説というのは、日蓮正宗の仏法が広宣流布した暁には「三大秘法抄」に説かれている戒壇が、富士宮市の天母山に建立されるという説で、この天母山戒壇説に熱心なのは、浅井昭衛が率いる冨士大石寺顕正会である。顕正会は今でも、将来、天母山に国立戒壇が建立される、という天母山戒壇説を唱えています。

では、いつ、天母山戒壇説が出てきたのか、ということになりますが、天母山戒壇説が、はじめて文献に登場するのは、日蓮の入滅から200年以上経った1488(長享2)年、日蓮正宗大石寺9世法主日有の門下であった左京阿闍梨日教の著書「類聚翰集私」に出てくる。そこには、次のように書いてあります。

「天生原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』2p323)

 

これが天母山戒壇説が文献に出た最初と言われています。この左京阿闍梨日教の著書では、天母山ではなく、天生原と言っている。しかし、昔も今も富士山麓や富士宮周辺に「天生原」という地名はなく、左京阿闍梨日教が具体的にどこを差して天生原と言っていたかは不明である。

「天母山」という名前がはじめて富士門流の文献に登場するのは、さらに時代が下った1567(永禄10)年、京都・要法寺13代貫首・広蔵院日辰の著書「御書抄・報恩抄下」においてである。

「富士山の西南に当たりて山あり。名をば天生山と号す。この上において本門寺の本堂、御影堂を建立し…」

という文で、ここにはじめて天生山(天母山)の名前が登場する。

顕正会では、「大石寺大坊棟札」の裏書きに天母山戒壇が登場するとしている。それは

「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」

とあるから、大石寺二祖日興の時代から天母山戒壇説が存在するとしている。

しかしこの「大石寺大坊棟札」については、日興の名前を間違えて書いている、日興の花押がない、徳川時代の御家流の書体になっている、裏書きの日付が大石寺大坊の完成から半年後になっている、という理由から、堀日亨、細井日達といった大石寺歴代法主自らが、この「大石寺大坊棟札」が、徳川時代に造られた贋作であることを認めている。

59世日亨2 

 

□正本堂の意義付け問題・国立戒壇論争のころ、天母山買い占めを謀った創価学会

 

さて、この要法寺・日辰の天母山戒壇説以降、特に、江戸時代に入って、大石寺において天母山・天生原戒壇説が唱えられるようになる。

「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(26世日寛)

「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し…尤も辰抄の如きなり」(29世日東)

「今は是れ多宝冨士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時に本門寺と号す…広宣流布の時は天子より富士山の麓・天母ヶ原に本門戒壇堂御建立ある」(44世日宣)

「本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし」(48世日量)

「富士山の山麓に天母ヶ原と申す広々たる勝地あり。ここに本門戒壇堂建立あって…」(56世日応)

 

このように、江戸時代から明治時代にかけて、天生原、天母原、天生山、天母山戒壇説を法主自ら唱えていた。ところが昭和4050年代にかけてわき起こった、日蓮正宗・創価学会vs妙信講(今の顕正会)の間でわき上がった国立戒壇論争のあたりから、日蓮正宗は「天母原・天生ヶ原=大石が原である」として、天母山戒壇説を引っ込めてしまっている。日蓮正宗系で、今でも天母山戒壇説を唱えているのは顕正会ぐらいなものである。

ではその天母山とは一体どこにあるのか、ということですが、富士宮市の大石寺や北山本門寺から、ほど近い所にある。国道469号線で、日蓮正宗大石寺から北山本門寺の前を通り抜けて、富士宮道路・北山インターから御殿場方面に向かうと、約2キロぐらい行ったところに、天母山に登って行く入り口がある。天母山という山は、標高491メートルくらいの山で、ここには天母山自然公園、温泉・天母の湯、奇石博物館といった施設がありますが、小高い山があるだけ。天母山はこれだけ見ると、他のどこにでもある、富士山麓のただの小高い山ということになる。

「ここから、大石寺や北山本門寺を見下ろすことが出来るかな」と思いきや、ここは木々が生い茂っていて視界を遮っているため、それもできません。

この天母山一帯には、桜の木・ソメイヨシノが植えられていて、春になると桜が一斉に咲きみだれる、桜の名所になっているのだといいます。日蓮正宗系のカルト団体同士の天母山戒壇論争の舞台になった天母山は、今は天母山自然公園として、ソメイヨシノ、ヒガンザクラ、オオシマザクラなどの桜の木が植えられ、富士宮市の桜の名所になり、市民の憩いの場になっています。

富士宮市の見解によれば、桜の木が300本以上も植えられているということです。

ところで、天母山にある天母山自然公園というのは、かつて創価学会が妙信講(今の顕正会)と、激しい国立戒壇・事の戒壇論争を繰り広げていた昭和4050年代のころ、この天母山を創価学会が買収しようとして、次々と土地を買いあさって行っていたのだが、天母山に宗教団体・法華道場の本山があることから、天母山買収を果たすことが出来ず、買い占めた土地を富士宮市に寄付。そこが「天母山自然公園」になっている、ということです。天母山を買収しようとしたのが、天母山戒壇説を唱えている妙信講(今の顕正会)ではなく、その妙信講と戒壇論争を繰り広げていた創価学会だった、というのも面白い史実です。

天母山1