■鎌倉妙本寺1(比企能員の変で滅亡した比企氏館跡)

 

□比企能員の変で滅亡した比企氏館跡に建っている日蓮宗本山・鎌倉妙本寺

 

鎌倉妙本寺とは、神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山(霊蹟寺院)で、鎌倉駅東口から徒歩10分ぐらいのところにある。正式名称は長興山妙本寺という。

文応元年(1260年)の創建。開基は比企能本、開山は日朗。日朗門流の本山で、長い間、池上本門寺と両山一首制になっていた。池上本門寺と鎌倉妙本寺の両山一首制は、1941(昭和16)年までつづき、江戸時代には池上本門寺に貫首が住し、鎌倉妙本寺には司務職として本行院住職が管理していた。1842(天保13)年、天保の改革で廃寺になった感応寺の厨子を移設している。

霊寶殿には、日蓮、日朗ゆかりの寺宝が納められている。霊寶殿には、日蓮真筆「臨滅度時の本尊」も格蔵されている。この曼荼羅本尊を板に模刻した板曼荼羅が池上本門寺大堂や大坊本行寺ご臨終の間に祀られている。

 

現在、鎌倉妙本寺のある場所は、比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれ、比企ヶ谷妙本寺の名前でも呼ばれている。この比企ヶ谷は、鎌倉時代には鎌倉幕府の有力御家人・比企能員(よしかず)一族の屋敷があった所である。

比企能員一族は、源頼朝の治承の旗揚げ以来の御家人で、比企局は、源頼朝の嫡男・頼家の乳母。さらに源頼家は、比企能員の娘との間に嫡男・一幡をもうけ、一幡も比企能員一族の手で養育されていた。

鎌倉幕府では、源頼朝の正室・北条政子の実父・北条時政が、将軍頼朝の舅として絶大な勢力を持っており、頼朝の死後、頼家が二代将軍となって以降も、北条時政は源頼家の祖父、北条義時は伯父として、権力を狙っていた。源頼朝の死後、北条時政一族と比企能員一族の間に権力闘争が起きる。

鎌倉幕府二代将軍・源頼家の数々の不行跡や土地紛争の裁決等に不満を抱く御家人たちを、北条時政がうまくまとめあげ、源頼家から裁判権を取り上げて、13人の御家人の合議制にした。

これが火種になって北条時政を支持する御家人たちと源頼家・比企能員一族の間に対立が深まる。その後、源頼家が昏睡状態になってしまうほどの重大な病に倒れる。北条時政・義時一族は2代将軍・源頼家の危篤にこと寄せて、比企一族を打倒して、頼家から弟・実朝への相続を画策。

北条側は、鎌倉幕府の有力御家人・安達、三浦、和田一族らを味方に引き入れ、北条時政が仏事にこと寄せて比企能員を鎌倉・名越の北条の館におびき寄せ、平服で来た比企能員が北条方に誅殺される。ここで北条側が比企一族を電撃的に急襲。これがいわゆる比企能員の乱といわれる北条と比企の戦争だが、鎌倉幕府の御家人を二分するほどの戦争になった。

力尽きた比企側は館に火を放ち、それぞれ一幡の前で自害。一幡も炎の中で死んだ。

比企能員の嫡男・比企余一郎兵衛尉は女装して戦場を抜け出したが、道中で加藤景廉に首を取られた。夜に入って比企能員の舅・渋河兼忠が誅殺された。

妙本寺18一幡墓 

 

その後も比企能員与党の探索が行われ、流刑・死罪の処断がなされた。比企氏の一族郎党はことごとく滅亡したのだったが、比企能員妻妾ならびに比企能員の末子である2歳の男子は和田義盛に預けられ、安房国へ配流となった。

この和田義盛に預けられた比企能員の末子である2歳の男子が、後の比企能本である。

比企能員の乱の後、息を吹き返した源頼家も伊豆修善寺に幽閉され鎌倉から追放された。源実朝が三代将軍になった。そして将軍実朝は、まだ若いということで、祖父の北条時政が執権として、鎌倉幕府の権力を握った。今の鎌倉妙本寺祖師堂に向かって右側に、比企能員一族の墓、源頼家の嫡男・一幡の廟がある。

『新編鎌倉志』によれば、生き残った比企能本は伯父の伯蓍上人に匿われて出家し、京の都で順徳天皇に仕え、承久の乱後に順徳天皇の佐渡島配流に同行した。

しかし比企能本の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が、鎌倉幕府四代将軍・藤原頼経の御台所となったことから、鎌倉幕府から許されて、鎌倉に戻った。

比企能本は儒学者として鎌倉幕府に仕え、建長5年(1253年)頃から比企能本(大学三郎能本)は日蓮に帰依する。比企能本は、建仁元年(1202年)の生まれだから、日蓮に帰依したのは50才を超えて後ということになる。

竹御所は1234(文暦元)年の出産時に死去し、遺言として自仏像であった釈迦如来立像を祀る釈迦堂を建立。その下に竹御所が葬られた。四代将軍・藤原頼経の御台所・竹御所の死後に、その菩提を弔うため、鎌倉・比企ヶ谷に法華堂を創建し、これがのちの妙本寺の前身となる。

比企能本が自宅の邸宅を献上して、妙本寺にしたというわけである。

 

文応元年(1260年)10月、北条政村の娘が比企氏の怨霊に取り憑かれるという事件があり、妙本寺の境内にある蛇苦止堂は、北条政村の建立であるという。

この蛇苦止堂というのは、比企能員の変で井戸に飛び込んで自害したという2代将軍・頼家の側室で嫡子・一幡の実母である若狭局を祀る。自害した若狭局は、後に北条政村の娘に霊となって憑いたことから、このように北条政村の建立によって祀られた。

妙本寺は当初、竹御所の法華堂として始まり、文応の事件によって北条氏により比企氏の怨霊供養として法華堂が建てられ、比企氏一族の菩提寺となったと見られる。

能本は鎌倉で布教していた日蓮に帰依していたため、この法華堂は日朗が住職となり、以後日蓮宗の重要な拠点となったということである。

妙本寺15祖師堂