■鎌倉妙本寺2(なぜ比企能本だけが生き残ったのか)

 

□なぜ比企能員の乱で比企能本(大学三郎能本)だけが比企能員の乱で生き残ったのか

 

鎌倉妙本寺の境内は実に広い。ここが鎌倉幕府の有力御家人・比企能員の屋敷跡ということだから、鎌倉時代初期のころの比企一族の栄華が窺い知れる。

ところで鎌倉妙本寺は、比企一族の生き残りである比企能本(大学三郎能本)の建立・開基ということになっている。公式には比企一族は滅亡した、となっているが、一人だけ生き残りがいたということである。比企能員妻妾ならびに比企能員の末子である2歳の男子は和田義盛に預けられ、安房国へ配流となった。この和田義盛に預けられた比企能員の末子である2歳の男子が、後の比企能本である。これは不思議に思いました。なぜ比企能本だけが生き残ったのか。なぜかというと、平安、鎌倉の上古の時代から武家の戦で敗北したて方は、女子は仏門に入ることを条件に命は助けられるケースが多いが、男子は小さな子どもも含めて全員が誅殺されるのが、常識だった。

1159(平治1)年の平清盛と源義朝・藤原信頼の合戦「平治の乱」で、敗北した源氏方は全員誅殺されたが、平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより、源義朝の嫡男・頼朝は誅殺を免れ、伊豆に流罪と成った。

その源頼朝が長じて1180(治承4)年、平家打倒の旗揚げを行う。これから約5年にわたる源平合戦が起こり1185(寿永4)3月、長門国壇ノ浦で平家が滅亡する。

この事件から、戦に敗北した方の生き残りが、後年に報復することを怖れ、源頼朝自身が戦で打ち破った相手方の男子を徹底的に殲滅・誅殺した。

木曾義仲の嫡男、源義経の嫡男しかり。これは源頼朝死後も同様で、鎌倉幕府によって滅ぼされた阿野全成の嫡男、梶原景時の嫡男、畠山重忠の嫡男、和田義盛の嫡男、さらには源頼家の嫡男・一幡、公暁、禅暁等、全員が誅殺されている。

ところが、比企能員の乱で、北条方の目の敵にされていた比企一族が滅亡したほずなのに、比企能員の末子である2歳の男子・比企能本だけが生き残ったというのは、何とも不思議である。

比企能本が長じて日蓮の弟子になり、比企一族の旧屋敷跡が鎌倉妙本寺になったわけだから、比企能本が生き残らなければ、鎌倉妙本寺もなかったかもしれない。

又、ただ一人生き残った比企能本が、後年、長じてから比企一族を滅亡せしめた北条氏が支配する鎌倉幕府に対して、何もしなかったというのも、全く不思議である。

鎌倉妙本寺の境内を歩くと、比企能員の乱にまつわる比企一族の供養塔、一幡の廟、竹御所の墓、比企能員の乱で井戸に飛び込んで自害したという源頼家の正妻・若狭局を祀る蛇苦止の井。

史料によれば、自害した若狭局は、後に北条政村の娘に霊となってとりつき、日蓮によって供養され祀られた、ということになっている。が、こういう故事を記した日蓮の遺文はない。

妙本寺25 

 

□自邸を寺院して日蓮に供養した比企能本は怨霊・御霊信仰の信者だった可能性が高い

 

1979(昭和54)年に放映されたNHK大河ドラマ「草燃える」の再放送録画ビデオを数年前に見たのですが、比企能員の乱のシーンでは、比企局が

「怨みますぞえ北条殿。我等の霊魂は末代まで祟りましょうぞ」

と言って、火中に身を投げるシーンが出てくる。時代劇として見ていると、なかなかのクライマックスシーン、名場面なのですが、やはり比企能員の乱で比企一族が北条方を怨んで滅亡したというのは、伝説としてあるのでしょうね。

比企一族がそれほどの怨みをもって滅亡したとなれば、比企能本が、後年、長じてから北条氏が支配する鎌倉幕府に対して、謀叛も何も起こさなかった、というのはますます不思議に見える。

北条氏の天下になり、いくら反逆してもムダだと思ったのか。武力では北条氏に対して何も出来なかったからこそ、鎌倉幕府と対立関係にあった日蓮に帰依したとも考えられる。

 

もうひとつ考えられるのは、御霊信仰である。

「御霊信仰」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のこと。

怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。怨霊というものは非業の死、恨みによって生まれるものと考えられていたということになる。平安時代から鎌倉時代にかけては崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇、後醍醐天皇などが怨霊となったと怖れられ、朝廷や幕府は慰撫や慰霊のために寺社を建立している。」

(フリー百科事典・Wikipediaより抜粋)

 

比企能本は、『怨霊』と化した比企一族の霊の鎮魂のため、比企一族の菩提を弔うために、自邸を寺院として供養した。鎌倉幕府と対立して滅亡した比企一族の怨霊を鎮めるため、あえて鎌倉幕府と対立関係にあった日蓮に帰依して日蓮の寺院として供養した。

つまり比企能本自身が怨霊・御霊信仰の信者だったと考えられる。だから寺院建立で比企一族の菩提を弔うことに専念し、北条幕府に対して反抗することをしなかったのではないだろうか。

妙本寺16比企墓