■京都本能寺4(京都本能寺の約450年で五度の災禍)
□京都本能寺が約450年で五度の災禍を受けたのは、はたして本当に多いのか
本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭い、だいたい70年に一度の割合で火災になっているため、1928(昭和3)年の第七次建立のさいに、貫首が本能寺の「能」の字にヒヒとついていることから、今度こそ火災にあうことがないようにと、現在の「去」に変えたのだという。
本能寺は創建以来、地を転ずること4度、その間、他宗派によって伽藍を破脚・焼き討ちされること二度(京都妙顕寺宗徒による焼き討ちと比叡山延暦寺宗徒の焼き討ち・天文法華の乱)。
戦災による類焼が二度(本能寺の変と蛤御門の変)。京都大火による類焼が一度(天明の大火)。
五度も災禍を蒙っている。が、よくよく考えてみると、約450年間で、五度の災禍を受けたことは、果たして多いのか、という疑問もわく。
たとえば、天台宗総本山・比叡山延暦寺と天台寺門宗総本山・園城寺が、古くから抗争以上の戦争を繰り広げてきたことは、あまりにも有名。この延暦寺vs園城寺の戦争が、日蓮の遺文に出てくる。それは「報恩抄」と呼ばれている日蓮の遺文で、それには次のように書かれている。
「智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄を感ぜり。但中堂計りのこれり」(御書全集1017~1018)
□平安時代から中世末期までに比叡山延暦寺宗徒から50回以上も焼き討ちされた園城寺
園城寺という寺院は、天台寺門宗総本山で、866年に比叡山延暦寺の天台宗5世座主・円珍がここを伝法灌頂の道場とし、諸堂を整備して寺域を拡大。そして多くの高僧を輩出して、東大寺・興福寺・延暦寺とともに四箇大寺に数えられた。円珍の没後、天台宗は円珍門流(寺門派)と慈覚大師円仁門流(山門派)の対立が激化。993年に円珍門流1000人余りはついに延暦寺を下山して、園城寺に一大勢力を形成した。
比叡山延暦寺の戒壇建立後、延暦寺、園城寺の諍論により、園城寺の宗徒は比叡山延暦寺の戒壇で受戒できなくなる。そこで永保元年(1081)に白河院の綸旨により園城寺に建壇されたのが三麻耶戒壇である。
しかし天台宗の山門・寺門の2派に分裂して抗争により、延暦寺は園城寺の建壇を認めず、1081(永保1)年には山門(延暦寺)宗徒が園城寺に乱入し、伽藍・堂宇のほとんどを焼き払ってしまう。以後、比叡山延暦寺宗徒の園城寺焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。いわば比叡山延暦寺は、既得の特権を死守しようとしたわけで、園城寺の三麻耶戒壇の建壇に猛反対したのである。
又、園城寺は、政治的な抗争にも巻き込まれ、源平の戦では源氏に組して平家の攻撃を受け、南北朝の抗争でも足利氏に組して戦禍を受けた。1595(文禄4)年には、豊臣秀吉に堂宇を破却され、その死の直前に再興の許可が降りた。今の諸堂の多くは慶長以降の復興であるが、園城寺は焼き討ちや戦乱で焼失後も、そのたびに再建を繰り返している。
その比叡山延暦寺も、武家との抗争で、三度の焼き討ちに遭っている。
永享7年(1435年)、度重なる叡山制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、2月、根本中堂に火を放って焼身自殺。根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼した。また、「本尊薬師三体焼了」(大乗院日記目録)の記述の通り、円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。8月、足利義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。宝徳2年(1450年)5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。
明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。
元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国日本の統一の障害になるとみた織田信長は、9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。
□江戸時代の1630年から昭和の1945年の約410年間の間に11回の火災があった大石寺
大石寺は、江戸時代の1630年から昭和の1945年の約410年間の間に、11回の火災があった。
□寛永8(1631)年10月12日 大石寺諸堂焼失(大石寺文書)
□文化4(1807)年5月12日 大石寺塔中理境坊焼失(大石寺理境坊棟札)
□安政5(1858)年5月25日 大石寺遠信坊・寿命坊・寶林坊・学寮四箇焼失(日霑上人伝)
□万延元(1860)年2月25日 大石寺富士見庵・寿命坊・遠信坊・学寮焼失(本尊裏書)
□元治2(1865)年2月28日 大石寺客殿・六壺・大坊焼失(日霑上人伝)
□慶応元(1865)年12月23日 大石寺蓮葉庵焼失(日霑上人伝)
□明治42(1909)年6月8日 大石寺塔中百貫坊焼失(白蓮華416号)
□大正13(1924)年10月31日 大石寺塔中本境坊焼失(院二二五)
□昭和5(1930)年6月4日 大石寺塔中本境坊焼失(院257号)
□昭和8(1933)年10月23日 大石寺蓮葉庵焼失(宗報A37号)
□昭和20(1945)年6月17日 大石寺大坊(対面所・大奥・書院・六壺)・客殿等五百余坪焼失
戦災や火災にあった回数から言えば、本能寺よりもはるかに園城寺や大石寺のほうが多い。「ヒ」が「去」のような字に替えなくてはならないのは、本能寺ではなく、むしろ園城寺や大石寺であるような気がするのだが、どうだろうか。
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