■京都本能寺8(大石寺の種脱勝劣は日陣・日隆門流のパクリ3)
□大石寺9世日有の本迹勝劣・種脱勝劣は京都・日隆門流教学のパクリ・アレンジである
大石寺教学の本迹勝劣・種脱勝劣が法華宗勝劣派の日陣門流のパクリなのか。あるいは日隆門流のパクリなのか、ということを検証していく上で、ポイントとなるのは、交流の問題がある。
大石寺ないしは大石寺9世日有と京都本能寺・日隆には、室町時代に明確な接点があった。
大石寺側の史料である「日有師・物語聴聞抄佳跡上」(日有御物語抄)には、次のようにある。
「一、第廿九段本書曰尼崎の慶林坊の師匠広覚坊日学、冨士大石寺の門徒、讃州高瀬大弍阿闍梨日寿と土州幡多、庄山田郷在岡の法華堂真静寺と吉奈の富士門徒との問答は神力品の五重玄義は約教の五重玄か、約行の五重玄かと問ふ、日学は約行の五重玄と云ふ、日寿は約教の五重玄と云へり此問答なり已上。 」(富士宗学要集1巻p233)
「尼崎の慶林坊」とは、日隆門流・京都本能寺の開祖・日隆のこと。詳しい現代語訳は省略させて頂くが、大石寺門流と日隆門流で問答をした、というような内容である。
大石寺9世日有は、1432年(永享4年)に、京都天奏のために上洛している。
日陣と日隆の事跡を照らし合わせてみると
□1396(応永3)年、日陣が「選要略記」を著して歴史上はじめて「本迹勝劣」を説いた
□1405(応永12)年 日隆が京都妙本寺を退出し比叡山、高野山に遊学。
□1406(応永13)年 日陣が京都・四条堀川に本禅寺を創建 本迹論争が起きる
□1410(応永17)年 日隆が日存、日道と越後本成寺に日陣を訪ねる。
□1415(応永22)年 日隆が京都本応寺を創建
□1418(応永25)年 京都本応寺が妙本寺宗徒により破脚される。
□1426(応永33)年 日隆が童型の自像を彫刻せしむる
□1429(永享元)年 日隆が『四帖抄』を著す。本応寺を再建。第二次建立。立宗を宣言。妙蓮寺と断絶。
□1431(永享3)年 日隆が日蓮百五十回遠忌を本応寺にて奉修。
(『本能寺』p16)
日隆は大石寺9世日有が京都に上洛した1432年(永享4年)の時点において、すでに日隆門流の教学の大綱を確立していた。したがって、大石寺9世日有が偽作した「百六箇抄」にある本迹勝劣・種脱勝劣は、日隆門流教学の大きな影響があったことは明らかである。「百六箇抄」にある本迹勝劣・種脱勝劣は、日隆門流教学の本迹勝劣・種脱一双・八品正意のパクリであり、アレンジと見るのが妥当であろう。
□本迹勝劣・寿量品正意を歴史上はじめて唱えたのは法華宗陣門流の開祖・日陣
では法華宗勝劣派・日陣門流(法華宗陣門流)と大石寺・富士門流との間に交流はあったのか。
法華宗陣門流総本山・越後本成寺の8世貫首日現は、1516(永正11)年、「五人所破抄斥」という文書の中で、「二箇相承書」を全文引用して、次のように書いている。
「日現申す、前の御相承(9月13日)は身延相承、後は(10月13日)は池上相承と云々。御判形現形也。されども一向、御正筆に非ず。偽書謀判也。又日興の手跡にもあらず。蔵人阿日代と云う人の筆に似たりと承り及也」(『日蓮宗宗学全書』7巻p182より)
本成寺とは、新潟県三条市西本成寺1丁目にあり、初祖は日朗、開山は日印、日陣門流の門祖は日陣。塔頭が要住院、本照院、久成院、蓮如院、持経院、顕性院、一乗院、本高院、静明院、寿妙院の十院ある大規模な寺院である。
蔵人阿日代とは、本来、北山本門寺2世となるべき人物だったのだが、北山から追放されて西山本門寺を開いて、西山本門寺開祖・3世となった。西山本門寺の過去帳には、越後本成寺9世貫首・日覚の名前が記載されているということで、西山本門寺と越後本成寺は、当時は交流があったと推測されている。つまり大石寺と日陣門流が直接交流があったのかどうかは判然としないが、少なくとも16世紀初頭のころには、富士門流と日陣門流は交流があったと推測される。
しかし大石寺では、15世紀の大石寺9世日有の代には、すでに本迹勝劣、種脱勝劣が成立していた。大石寺59世堀日亨が本是院日叶(左京阿闍梨日教)が1480(文明12)年の書であるとする「百五十箇条」には、すでに本迹勝劣、種脱勝劣を説き明かす「百六箇抄」が引用されている。
したがって、大石寺の本迹勝劣、種脱勝劣は、16世紀初頭のころの、富士門流と日陣門流の交流の影響によるものとは言えない。
しかしながら、京都本能寺の開祖・日隆は、京都妙本寺(後の京都妙顕寺)を退出してのち、歴史上はじめて本迹勝劣・寿量品正意論を唱えた日陣を、1410(応永17)年に越後本成寺に訪ねている。したがって、日隆の本迹勝劣・八品正意論は日陣門流の多大なる影響を受けていると考えられる。
したがって、もともと日陣が「選要略記」を著して歴史上はじめて「本迹勝劣」を説いたわけだから、大石寺の本迹勝劣、種脱勝劣は、日陣門流の影響であるという言い方もできる。
しかし大石寺9世日有が京都に上洛した1432年(永享4年)とは、京都の日蓮宗で本迹論争が起こり、日隆が本迹勝劣義・八品正意論を確立して立宗した後のこと。
京都での直接の接点という点から言えば、大石寺の本迹勝劣・種脱勝劣、というか「百六箇抄」の本迹勝劣・種脱勝劣は、日隆門流教学のパクリであるという言い方が至当ではないだろうか。
コメント
コメント一覧 (11)
日隆がいなければ、今日の大石寺教学自体が存在していない事でしょう。
江戸時代まで関東の細草談林というところで机を並べて、僧侶育成機関に通っていたんですから。
一致派は飯高談林(立正大学の前身)で修学していました。
鶴丸の紋章等化儀等も微妙な違いはあるものの、非常に似通っています。
本家は法華宗の方でしょう。日蓮にゆかりの曼荼羅・什宝類等は大石寺に比べものにならない位、保管しています。
http://library.honmon-butsuryushu.or.jp/login.php?lm=1&unid=1031494525
仏立講の教務等の方の知り合いが居られましたら、
資料等を見せて頂けるかも判りませんね。
どこかのお山程、閉鎖的ではないと思いますが。
門祖は日隆上人の筈ですから、古い資料などが有るかも判りません。
残念ながら、私は仏立講の知り会いがいませんので、お役に立てず、申し訳ありません。
Hideさん位の人脈のある人でしたら、すぐにでも見つかると思います。
元要法寺僧侶・柳沢宏道氏やhideさんの嫌いな正信会信徒で鎌倉にて興門資料刊行会(名前は忘れましたが)を経営している人物・岡山の興風談所あたりも古い資料を持っている可能性が有ります。
持っていないにしても、ルートが分かるかもしれませんよ。
寡聞にして、法華宗本門流にも知人もいませんので、古文書調査のためということでしたら、上記の人物をあたられるのも一つの手段かも知れません。
日蓮正宗でも香川の讃岐本門寺ぐらい(行ったことは有りませんが)は敷居が低いのでは?
いずれにしても、古文書調査という名目は崩されない方が宜しいかと思います。
以外に協力的な僧侶や居士がいるかも分かりません。
法門の話をしてきたら、反論せずに黙ってうなずく。
これが聞きだすコツだとは言っておきます。
そして、歴史的な背景に触れていく。
ご健闘を期待しております。
俺はもうここには来ない
魔に負けずまた日蓮正宗の信心に復帰するが良い