■大名時計博物館1(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館)

 

□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館

 

「本当に日興在世の時代の大石寺では、深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたのか」

こういう単純な疑問を解き明かすため、時計のことから調査がはじまった。そして大石寺の丑寅勤行の謎を追って、大名時計博物館を訪れたのである。

さて、時計のことを調べる前に、1日の時刻や暦についても調べる必要があり、まずはさまざまな歴史本や資料を読んで調べるところから始まった。そういう中でわかったことは

1 江戸時代以前の日本においては、今のような定時法ではなく、日の出から日の入りまでを基準とする不定時法だった。「日の出」の時刻はすべて「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」。

現在のような定時法が導入されたのは、明治維新以降のことである。

2日の出とともに起きて、日没とともに寝る、ということが常識だった昔は、不定時法のほうが人々の生活に都合が良かった。

つまり、日の出を寅の刻とするのなら、丑寅の時刻とは、陽が昇り始める時刻であり、夏なら午前3時半くらい。冬なら6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいだろうか。

日の出を寅の刻と決めてしまうのなら、何も機械時計がなくても、時刻を知ることが出来る。

しかしその場合、丑寅の刻とは、午前2時から4時ではなく、夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいと、かなり時刻に幅が出てしまう。

つまり、明治維新以前、日本で定時法が導入される以前、大石寺でも同じように不定時法を採用していたと言うなら、その時代に行われていた「丑寅勤行」とは、今の丑寅勤行とはちがったものだ。それは、身延山久遠寺や池上本門寺等の寺院の他、仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」と何ら変わりはない。

仏教寺院で行われている早朝5時ないし5時半ころに行われる「勤行」は、丑寅勤行とは言わず、一般的に「暁天勤行」(ぎょうてんごんぎょう)と言う。「暁天」とは辞書によれば

「明け方の空。また、夜明け」(大辞泉国語辞典)

と載っている。今は暁天勤行とは言わず、早朝勤行と言う寺院も多い。

日蓮正宗の末寺寺院でも、早朝6時や6時半ころに本堂で勤行を行っている寺院がいくつもあるが、いずれも「早朝勤行」とか「朝の勤行」と呼んでいて、丑寅勤行とは言わない。

丑寅の刻に行う丑寅勤行と、明け方に行う暁天勤行ないしは早朝勤行は、別のものである。

こう言うと大石寺僧侶や妙観講あたりは「大石寺では丑寅勤行が朝の勤行に当たるのだ」と言うのだろうが、この言い訳は完全なまやかしである。

私が言っているのは、実際に勤行が行われる時刻のことを言っており、丑寅の刻なのか、それとも太陽が昇る明け方に行うのか、ということを問うているのであり、勤行の意義付けのことを言っているのではない。

 

 

□深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うには機械時計を持っていないと絶対に無理である

 

大石寺二祖日興在世の時代から、大石寺で毎朝深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたとするならば、大石寺では日興在世の時代から定時法を採用していないと無理である。

又、同時に日時計や水時計、砂時計の類では絶対に深夜の正確な時刻を計ることは不可能なので、大石寺に機械時計がないと無理である。

江戸時代においては、定時法の時計があったことはあった。しかしそんな時計を持っていたのは、将軍や大名、幕府の旗本など一部の特権階級のみだったはず。

そんな時代に、大石寺が定時法の時計や機械時計を持っていたのか。ましてや鎌倉時代後期の日興在世の時代に、大石寺が定時法の時計や機械時計を持っていたのか。定時法を実際に採用などしていたのか。

こういった調査を踏まえて、機械時計のことを調べようと赴いた所が、東京・谷中にある大名時計博物館である。

大名時計というのは、一口に言って、昔の和時計のこと。江戸時代の機械時計のことを、和時計とか大名時計とか呼んでいた。江戸時代に機械時計を持っていたのは、大名ぐらいのものだったから、大名時計と言われるようになった、という説もある。

その大名時計をいろいろと格蔵・陳列している博物館が、大名時計博物館。

大石寺がもし日興在世の時代から定時法を採用していたならば、日興在世の時代の大石寺に機械時計がなくてはならなくなる。そうしないと毎朝深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことが出来ない。では、日本で最初に機械時計ができたのは、いつなのか。

その謎を解くカギは、まさに大名時計博物館にあった。

大名時計博物館とは、陶芸家、上口愚朗が生涯にわたり収集した江戸時代の貴重な文化遺産・大名時計を長く保存するために、昭和26年3月「財団法人上口和時計保存協会」を勝山藩の下屋敷跡に設立。上口愚朗が初代理事長になる。

昭和45年10月上口愚朗没後、二代目上口等が昭和49年4月「大名時計博物館」を開館。親子二代にわたり設立した博物館である。

大名時計博4