■大名時計博物館2・(丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2)
□大石寺の深夜2時から4時の丑寅勤行の謎を追って訪れた大名時計博物館2
日蓮正宗では、二祖日興の時代から丑寅勤行が行われていた証拠文献として「日興跡条条事」を挙げる。ところが、「日興跡条条事」なる文書を検証していくと、まさに矛盾だらけの文書であることが判明してくる。「日興跡条条事」第三条の文には
「大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8巻p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)
とあるが、この第三条の文によると、日興は日目に大石寺の「御堂」と「墓所」を管領し、修理を加え、日々勤行をして、広宣流布を待つように命じているということになるが、日蓮正宗に言わせると、大石寺の「勤行」とは、毎朝丑寅の時刻に客殿で行われている丑寅勤行のことだと日蓮正宗や日蓮正宗の信者は言う。
日蓮正宗では、日興の大石寺開創以来、毎朝欠かさず丑寅勤行を行ってきた、などと言っており、この「日興跡条条事」第三条の「日目之を管領し修理を加え、勤行を致し」の「勤行」が、日興在世当時の大石寺で行われていた丑寅勤行のことだと、無理矢理にこじつける。
しかし、これは全くのウソ。日興在世の時代に、大石寺には客殿も本堂も根本本尊もなく、毎朝の丑寅勤行など全く行われていなかった。
もっと言うと、日興在世の時代に、毎朝深夜2時から4時の時刻に勤行を行うことは、物理的に不可能だったのである。どうしてそう言えるのか。
□1 そもそも深夜2時から4時の正確な時刻に、勤行を行おうとすれば、機械時計が存在していないと絶対に無理である。日時計や水時計、砂時計の類では絶対に無理。これらの時計では、日没後の正確な時刻を測定できない。
□2現在の時刻の「定時法」が採用されたのは、1873年(明治6年)1月1日、太陽暦の導入と同時に西洋式の時法が導入されたのであり、軍隊内部では、午前・午後の間違いを防ぐために24時制が使用されていた。1942年(昭和17年)10月11日、鉄道に24時制が移入され、一般人の間にも24時制が普及することとなったのである。
それでは、その定時法が導入される前はどうだったのかというと、「日の出」の時刻はすべて、「寅の刻」あるいは「卯の刻」と決めてしまい、それを境に昼と夜をそれぞれ六等分するというのが、昔の時刻の数えかたの「不定時法」だった。
しかし不定時法で時刻を決めてしまうと、北海道と九州では日の出の時刻がちがうし、夏か冬かという季節によっても日の出の時刻は違っている。
(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)
それをすべて日の出の時刻を基準にして昼夜をそれぞれ六等分するのだから、一刻=二時間とは言えなくなる。昼夜の長さの等しい「春分」「秋分」では、そう言えるが、夜の一番長い「冬至」の日では、夜の一刻は二時間よりはるかに長く、昼の一刻は二時間よりも短いということになる。
こういう不定時法のほうが、昔の人にとっては都合がよかった。昔はTV中継もなければ電話、無線もないし、コンビニもなければ車もない。人間が夜間に活動できる場所も余裕もなかった。今のような照明もなく、灯といえば貴重な油を使った贅沢品だった。
つまり昔は、「日の出とともに起きて、日没とともに寝る」ということが常識だった。そういう世の中では、起きる時刻を「寅の刻」と決めておいたほうが便利である。
ただし、「寅の刻」とはだいたい「二時間前後の早朝を中心とした時間帯」を指すので、漫然としている。そこで今でいう「午前六時」や「午前七時」にあたる言い方もあった。それが「五ツ」とか「六ツ」である。
室町時代ごろから日の出と日の入(または夜明けと日暮れ)の間をそれぞれ6等分する不定時法が用いられるようになったが、天文や暦法で使う時法は一貫して定時法であった。
なお江戸時代には、その不定時法に時間表示を合わせた和時計も作られたのである。
よって、日興在世の時代に、深夜2時から4時の正確な時刻に丑寅勤行を行うことは、物理的に不可能だった。
□3深夜2時から4時の時刻の勤行など、どこの寺院でも行われていない。
日蓮正宗は、丑寅の時刻に勤行を行う縁由について、釈迦如来が菩提樹下で悟りを開いた時刻が丑寅の時刻だったから、あるいは日蓮遺文の文を挙げるが、それならば仏教各宗派の寺院でも丑寅勤行が行われていても不思議はない。
しかしどこの寺院でも、深夜2時から4時の時刻に勤行など行っていない。身延山久遠寺や池上本門寺の朝の勤行は、日の出まもない午前5時ないし5時半である。
こういったことから、「本当に日興在世の時代の大石寺では、深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行っていたのか」という疑問が生まれてくるのは、当然のことだと言えよう。
疑問を解くには、科学的、歴史的な裏付けが必要である。そこで大名時計博物館を訪ねたわけであった。
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