■大名時計博物館3(フランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計)

 

□日本に機械時計が伝来したのは1551年にフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計

 

さて大名時計博物館に、大石寺「丑寅勤行」の謎とウソを暴くカギがあった。

大名時計博物館の展示・資料、および博物館が刊行する小冊子「大名時計」によれば、ヨーロッパから日本にはじめて機械時計が伝来したのは、日本にキリスト教を伝来させたフランシスコ・ザビエルがもたらした機械時計が最初である、という。

大名時計博物館館報NO4「大名時計」によれば、次のように書いてある。

 

「日本に、外国製機械時計が渡来したのは、天文20(1551)16世紀の中頃であり、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、大内義隆に機械時計を献上したのが、文献上では最初だといわれている。その後、信長、秀吉、家康に機械時計が献上されているが、いずれも現存しないので、重りを動力にした時計か、ゼンマイを動力にした時計なのか、知るよしもない。

慶長16(1611)、メキシコから徳川家康に献上された、ゼンマイ動力の置き時計が、現存する最古の機械時計で、静岡県の久能山東照宮に保存されている。

文献によると、徳川家康のお抱え御時計師であった津田助左衞門政之が、時計師の第一号だという。しかしながら、津田助左衞門政之より以前に、時計師がいたと思うが、記録が発見されていない。今では、江戸時代(1603)になってから、大名時計を製作したと言われているが、もしかすると江戸時代以前、室町末期に大名時計を製作していたかもしれないが、考えられるだけで、証拠立てるものは何一つ、発見されていない。

久能山東照宮に保管されている、徳川家康所蔵の機械時計以後も、外国製の機械時計が日本に渡来している。

外国製の機械時計が、日本に渡来して、それをモデルにして日本人時計師が、機械時計を製作したのが最初で、その後、日本独特の不定時法による大名時計を製作したのである、というのが、現在は定説になっている。」

 

フランシスコ・ザビエルが日本へ機械時計を伝来させたことが発端になり、江戸時代以降、日本で機械時計が生産されるようになったという。すなわち西洋式の機械時計を日本式の機械時計に改良したもので、これが即ち和時計であり、大名時計である。

したがってフランシスコ・ザビエルが機械時計を日本に伝来させる以前、日本に機械時計は存在しておらず、よって深夜2時から4時の時刻に丑寅勤行を行うことも不可能である。

したがって、よく大石寺が言う、日興の代から大石寺では毎日欠かさず丑寅勤行を行ってきた、というのは全くのウソであると断言する。

丑寅勤行3 

(原進写真集『正法の日々』に掲載されている大石寺大客殿・丑寅勤行)

 
















 

□不定時法の時代は夜明け前くらいの勤行を丑寅勤行と称していたことを認めた細井日達

 

日蓮正宗大石寺66世法主細井日達は、1977(昭和52)526日の大石寺大講堂で行われた寺族同心会の席上で、「不定時法」の時代の丑寅勤行について、次のように言っている。

「『勤行を致し』、これは今は丑寅の勤行を云っております。それじゃ丑寅と書いてない。どこを丑寅と言うかと非難するでしょう。昔は電気もランプもなかった時代には、夜、日が暮れると寝て、朝、日が出る前に、薄明るくなった時に起きて勤行する。これは習慣であります。」

 

この細井日達の説法は、「不定時法」の時代においては、世間の風習に則って、夜明け前くらいに行っていた勤行を丑寅勤行と称していたことを認めたものである。

しかし大石寺が江戸時代以前において、不定時法を採用していたと認めるならば、1549年の機械時計伝来以前において、今の深夜2時から4時にかけて行われている丑寅勤行は、行われていなかったと認めるべきである。

不定時法の時代から、日蓮宗をはじめとする仏教各宗派の寺院では「三時の勤行」と言って、朝・昼・晩と13回の勤行をしていた。身延山久遠寺などでは今でもこの「三時の勤行」を行っている。時刻は朝がだいたい5時半。昼が正午。晩が午後4時半ころである。

大石寺も昔はこの「三時の勤行」を行っていた。それを近代に入って、朝・夕の12回の勤行にして、朝の勤行を「丑寅勤行」などと称するようになったのである。

もちろん、大石寺客殿の丑寅勤行を今の深夜2時から4時にかけて行うようになったのは、定時法が導入された明治維新以降のことである。それ以前の大石寺客殿の勤行は、日蓮宗・身延山久遠寺をはじめとする仏教各宗派の寺院で行われている「三時の勤行」の朝の勤行と同じ時刻に行われていた。つまり夏至で午前3時半くらい、冬至で6時半ころ。春分・秋分の日で5時半くらいに朝の勤行を行っていた。

これを後になってから「丑寅勤行」と称するようになっただけのことである。

よって「日興跡条条事」第三条の文

「一、大石の寺は御堂と云ひ、墓所と云ひ、日目之を管領し修理を加え、勤行を致し広宣流布を待つべきなり」(日蓮正宗59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8p17・『日蓮正宗聖典』p519・『御書全集』p1883より)

にある「勤行」とは、今の「丑寅勤行」のことではない。不定時法の時代に行われていた「朝の勤行」と、今の深夜・丑寅の刻に行われている「丑寅勤行」とは、別個の勤行である。