■福井・永平寺4(なぜ仏教寺院で厳しい修行が行われているのか)

 

仏教界の厳しい修行と言うと、永平寺の修行、比叡山延暦寺の千日参篭、中山法華経寺の百日大荒行とかが話題に上る。この他にも厳しい修行を行っている宗派や寺院があると思う。

私は子どもの頃から、僧侶が身近にいて、「僧侶は厳しい修行をしている」と聞かされた。だから、私は、「僧侶は厳しい修行をしているものなのだ」と、当たり前のように思っていた。

ただし、私の身近にいたのは、永平寺の僧侶ではなく、浄土真宗大谷派(東本願寺)の僧侶。

私は小学生の頃、習字を習っていたが、その習字の先生が真宗大谷派の地元寺院A寺住職。私の祖父の通夜・葬儀が行われたのが、真宗大谷派の地元寺院B寺。葬儀の導師を勤めたのが、金沢市内にある真宗大谷派の寺院C寺住職。さらに毎月1回、実家には真宗大谷派の地元寺院D寺住職がお経をあげに来ていた。そのD寺住職は、私が通っていた中学校の社会科担任教師で教頭だった。高校の社会科教師にも、真宗大谷派の寺院住職がいた。

ただし、永平寺や中山法華経寺と真宗大谷派を比較すると、修行の厳しさが全然違うことを、大谷派住職自らが認めている。真宗大谷派も僧侶は本山に登り、数年間、宗門指定の大学に通って教師になるが、千日の参篭も百日の荒行もない。

北陸地方には真宗大谷派門徒が圧倒的に多く、寺院も無数にたくさんあるが、ほとんどが檀家寺。寺院行事とは言っても、7月のお説教会と11月の報恩講ぐらい。住職も学校の先生兼業で行っている人がかなりいる。私の父ですら「あれじゃあ、門徒は減る一方だろうなあ」と言っているほど。

大谷派住職自身が「昔は南無阿弥陀仏だけでよかったんですが、今はそれだけじゃダメなんですよ」と言っており、いろいろな人の心の悩み事相談に応じる活動等を行っているという。

しかし永平寺や中山法華経寺の厳しい修行・苦行はない。もともと法然・親鸞の教えは「南無阿弥陀仏を唱えれば、どんな悪人でも極楽往生できる」という易行の宗旨だからではないだろうか。

だから私が子どもの頃に聞いた、僧侶の厳しい修行とは、永平寺の修行のことを指していたと思われる。

 

そうすると厳しい仏道修行・難行苦行とは縁遠い世間一般人から見ると

「なぜこんなに厳しい修行をしなければならないのか」「なぜここまで、しなければならないのか」

という疑問が沸く。

永平寺吉祥閣で放映されていたビデオ「永平寺の日々」を観ていたら、永平寺の修行を卒業して下山する若い僧侶が口々に「自分を見つめ直すことができた」「○○ができる人間になった」と言っていた。確かに現代社会では、「自分を見つめ直す」とか「人格を鍛え直す」機会は皆無でしょうね。世間のへそ曲がりな人たちや独善的で心根の曲がった人たちの人格を鍛え直すことができるなら、こういう永平寺の厳しい修行の場に入れてしまうのも一策ではなかろうかと思う。あの「富士門流執着軍団」のへそ曲がりな人たちも、永平寺の厳しい修行によって、少しはまともな人に蘇生できるのではないだろうか。

だから私は、仏教寺院で厳しい修行・難行苦行を行うこと自体、不要とは思わないし、ムダな事とも思わない。心根のねじ曲がった人が、マイナス6度の厳寒の中で、蘇生できたら、こんな結構な話はないではないかと思う。

永平寺21勅使門 

 











さて仏教寺院で厳しい修行・難行苦行を行う意味について、ある僧侶が「衆生の苦を知らない僧は衆生を救うことが出来ない」という意味のことを言った人がいた。つまり過酷な修行・難行苦行に身を投じて苦を知るのだという。私は「なるほど」と納得してしまいました。

たしかに僧侶の厳しい修行・難行苦行の苦と、一般衆生の苦は違うという意見もあるかもしれない。が、自ら苦を知ろうと厳しい修行・難行苦行に身を投じる僧を衆生は心から崇拝するのではないだろうか。ということは、難行苦行に身を投じるということは大きな徳行だということでしょう。

永平寺の雲水(修行僧)も中山法華経寺の荒行僧も、大半が若手の僧侶。この僧侶と話をすると

「やはり、どこか違うな」と思うことが多々あります。難行苦行に身を投じたたけ、徳を積んでいるということなのでしょう。

 

仏教界でも「難行苦行不要論」を唱える人もおり、その中に日蓮正宗や創価学会がある。彼らの言い分を聞いていると、やれ毎朝欠かさず丑寅勤行を行っているだの、世界平和を祈っているだの、池田大作が世界の要人と会っているだの、外国政府から勲章をもらっただのと言って、いかにもそういうことが、仏教寺院の難行苦行よりも優れているといわんばかりであるが、はたしてそうだろうか。

世界平和を祈っているのは、何も日蓮正宗や創価学会だけではない。世界平和は日蓮正宗や創価学会の専売特許ではないのである。池田大作の海外要人との会見や勲章のウラには、多額の寄付や金銭が動いているという報道が、1980年代のころからマスコミを賑わせてきている。

世間一般で、永平寺や中山法華経寺の厳しい修行よりも、池田大作の海外要人との会見や勲章が優れていると思っている人は、おそらく皆無ではなかろうか。

しかも日蓮正宗や創価学会は、難行苦行不要論を唱えている一方で、信徒からの強引な金集めに奔走し、法主や住職、池田大作らの贅沢三昧ぶりが、これまたマスコミを賑わせている。

むしろ、こんな強引な信徒からの金集めは一切やめにして、永平寺や中山法華経寺の厳しい修行で、法主や住職、池田大作らの心根をたたき直したらどうだろうかとさえ思うのは、私だけだろうか。