■京都・建仁寺1(大石寺勅使門は建仁寺等の臨済宗の勅使門のパクリ)

 

□日本の臨済宗では栄西禅師によって創建された最も古い臨済宗の大本山寺院・建仁寺

 

建仁寺とは、臨済宗建仁寺派大本山で、境内は京都有数の繁華街・祇園に最も近い所にある。京都・祇園に近い所にあるせいか、何度か建仁寺に行ったとき、いずれも参拝客がかなりたくさんいた。建仁寺とは、京都五山の第三位。開基は鎌倉幕府二代将軍・源頼家。開山は栄西禅師。

鎌倉時代の建仁二年(1202)に、日本臨済宗開祖・栄西禅師により創建され、年号をとって建仁寺と名付けられた。当初は天台宗、真言宗、禅宗の三宗兼学であったが、十世の円爾弁円、十一世の蘭渓道隆を経て禅宗寺院として確立し、室町時代に禅寺の格付け制度である五山の制の下で、京都五山の第三位になった。

方丈(重要文化財)は、慶長4(1599)に安芸国(広島県)の安国寺から移築された室町時代後期の禅宗方丈建築。鎌倉時代後期の遺構を伝える勅使門(重要文化財)は、扉にある矢の痕跡から「矢根門」とも呼ばれている。

寺宝として俵屋宗達の代表作である「風神雷神図屏風」(国宝)、海北友松の「竹林七賢図」「花鳥図」「雲龍図」など、桃山時代の貴重な屏風図、水墨画、障壁画などの貴重な文化財を所蔵していることで有名。豊臣秀吉を祀る高台寺や八坂の塔のある法観寺は、建仁寺の末寺である。

臨済宗とは、中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、唐の臨済義玄(? - 867年)を宗祖とする。臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西禅師らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、とくに室町幕府により保護されて、五山十刹が生まれた。

日本の臨済宗は、建仁寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、国泰寺派、大徳寺派、向嶽寺派、妙心寺派、天龍寺派、永源寺派、方広寺派、相国寺派、佛通寺派、興聖寺派があるが、建仁寺派は1202年(建仁2年)、中国・宋に渡って帰国した栄西により始まり、栄西は最初に禅の伝統を日本に伝えたということで、日本の臨済宗の中では最も古い。

栄西は、中国から茶を持ち帰り、喫茶を普及した茶祖としても知られ、毎年4月に方丈で行われる「四頭茶礼」は、禅院茶礼の古式を今に伝えている。

臨済宗の大寺院は、伽藍が勅使門、三門、法堂、方丈と一直線に並んでいて、勅使門が表門になっている。しかし勅使門とは、朝廷からの勅使しか通ることが許されない門であり、普段は堅く閉じられている。そうすると参拝客は、表門から入ることができなくなってしまうが、勅使門にむかって左側に、通用口が設けられていて、一般参詣人はここから出入りする。建仁寺の境内は、全て塀で覆われているため、門からしか出入りすることができない。

ところが建仁寺へ参詣する人は、勅使門の通用口から出入りする人は、ほとんどいない。どこから出入りするのかというと、北門と西門である。祇園に近いのは北門で、、タクシーの運転手に「建仁寺の表門に着けて下さい」と言うと、タクシーは建仁寺の北門に着けました。

しかし見た感じとしては、西門のほうが表門に見えなくもない。参詣人の出入りは、祇園に面している北門のほうが圧倒的に多く、西門は繁華街に面していないせいか、出入りは少ない。

建仁寺32北門 









 

私が建仁寺で最も関心があったのは、勅使門である。建仁寺の勅使門は、境内の最も南側。正面に当たり、八坂通りに面している。そして国の重要文化財に指定されている。

勅使門は切妻造りの四脚門で、文字通り天皇の勅使を迎えるための門で、勅使以外は通る事が出来ないため、普段は閉じられたままになっている。これは建仁寺の勅使門のみならず、東福寺、南禅寺、大徳寺、妙心寺、天龍寺等の臨済宗大本山にある勅使門も、日蓮宗大本山妙顕寺にある勅使門も同じ。

建仁寺の勅使門は、平重盛の六波羅邸の門、ないしは平教盛の館門、あるいは六波羅探題の北門であったのが、応仁の乱の後に建仁寺に移築されたものと伝承されているが、これは定かではない。建築様式は、鎌倉時代末期ころの建築とされている。門の柱や扉には、戦乱をくぐり抜けた矢の疵があり、「矢の根門」とも呼ばれている。

平重盛(11381179)とは、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世したが、父に先立ち病没した。

平教盛(11281185)とは、平安時代末期の平家一門の武将。平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛、平教経の父。保元の乱、平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。治承・寿永の乱では一ノ谷の戦いで嫡男の平通盛を始め子息を失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の平経盛とともに入水した。

平重盛も平教盛も、平清盛の全盛時代の武将で、建仁寺勅使門が鎌倉時代末期ころの建築様式になっていることを考えると、これらの説にはあまり説得力がない。むしろ六波羅探題の北門説のほうが有力ということになる。

大石寺9世日有の京都天奏は1432(永享4)年。応仁の乱は1467(応仁元年)。応仁の乱で京都は灰燼になったため、勅使門が他から移築されたという。もともと建仁寺は京都五山の第三位に列せられているわけだから、当然、応仁の乱以前においても、勅使門があったと考えられる。

同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、とくに室町幕府により保護されて、五山十刹が生まれたということは前に書いたが、臨済宗は朝廷や幕府の権力による保護のもとに栄えていくという道を選んだ。よって臨済宗の大本山である建仁寺の他、東福寺、南禅寺、大徳寺、妙心寺、天龍寺等には、皆、勅使門がある。

つまり勅使門とは、いわば権力による公認・庇護の象徴のようなもの。大石寺9世日有はまさに「権力」「権威」の象徴である勅使門をパクったということができるのではないか。

 

建仁寺19勅使門