■中谷山妙本寺(保田妙本寺)4(保田妙本寺・松本勝弥グループ潰しの謀略戦争2)

 

□室町時代の頃から大石寺9世日有偽作教学のお追従をしてきた保田妙本寺歴代貫首

 

保田妙本寺では、室町時代に11世日要、14世日我等の学者貫首を輩出して、冨士門流でも独自の妙本寺教学を展開したが、その内容は、保田妙本寺11世日要による大石寺9世日有が唱えた「事の戒壇」へのお追従、さらには百六箇抄、本因妙抄等を中心に日蓮本仏義を立てるもので、大石寺教学とほとんど同じと言える。保田妙本寺14世日我も、自らの著書で「久遠寺の板本尊、今大石寺に在り。大聖人存日の時の造立なり」などと、大石寺の「戒壇の大本尊」を肯定してしまっている。よって保田妙本寺歴代貫首の教学となると、「万年救護の大本尊・日蓮本懐説」どころか、少なくとも室町時代には、大石寺9世日有の教学と、ほとんど大差ないものになっている。

又、江戸時代の17世紀後半、保田妙本寺貫首・日濃により「万年救護の大本尊」が寺外に持ち出され、質入れされるという重大事件が起きている。「万年救護の大本尊」は上古の昔から保田妙本寺が格蔵してきた重宝本尊ではあったが、保田妙本寺の歴代貫首は「万年救護の大本尊・日蓮本懐説」までは誰も唱えてはいない。

その保田妙本寺は50世富士日照貫首の代、昭和32(1957)4月、本山妙本寺と末寺・本顕寺、本乗寺、顕徳寺、遠本寺の本山末寺4ヶ寺が日蓮正宗に合同した。時の大石寺法主は第65世堀米日淳であり、戸田城聖が在世の「折伏大進撃」で信徒数を急激に増加させていた時代である。

千葉・本顕寺住職・佐野知道氏が平成791日付け「継命」に寄せた寄稿論文によれば、保田妙本寺は日蓮正宗との合同当初から、大石寺とはかつて冨士門流八本山で日蓮宗興門派を造った経緯もあり、法的立場とは別に、寺格は大石寺と同等とされた、とする。この佐野知道氏の「大石寺・保田妙本寺対等寺格説」は、あながち間違いだとは言えない。なぜならば、昭和32(1957)830日、日向本山定善寺で執り行われた「日蓮正宗帰一奉告法要」にて、保田妙本寺50世富士日照貫首が列席して、「奉告文」を奉読しているが、その中で保田妙本寺50世富士日照貫首は、最後の一文に「日蓮正宗本山妙本寺第五十世嗣法日照」と記している。

「嗣法」とは日本国語大辞典によれば「仏語。法統を受けつぐこと。弟子が師の法をつぐこと。また、その弟子。禅家でいう。」と載っている。日蓮正宗でも「嗣法」という語句を使うが、通例は大石寺法主のみが使う仏語である。また富士日照貫首は「奉告文」の中で、「本因妙の教主南無日蓮大聖人、御開山日興上人日目上人、久妙両山開基日郷上人等来臨影響知見照覧の御宝前に於いて謹んで言さく…」と述べており、大石寺歴代法主の法系譜ではなく、保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜を述べている。つまり保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜の「嗣法」という意味を述べていると思われるが、この日向本山定善寺の「日蓮正宗帰一奉告法要」には大石寺65世堀米日淳法主が下向して「慶讃文」を自ら奉読している。つまり堀米日淳法主来臨の法要で、富士日照貫首は保田妙本寺・小泉久遠寺の法系譜を奉告文で読み上げて「嗣法」と称しているわけだから、大石寺も実質的に保田妙本寺に対して、同格の寺格を黙認していたものと思われる。

 

 

□日蓮正宗中枢から疎外されてきたことに強い不満を持って離脱を画策した鎌倉日桜貫首

 

では保田妙本寺51世鎌倉日桜貫首は、なぜ日蓮正宗からの離脱を画策したのか。元創価学会顧問弁護士・山崎正友氏が告発本「闇の帝王・池田大作をあばく」の中で次のように書いている。

「この問題は、創価学会だけでなく、日蓮正宗の問題でもあった。なぜなら、松本勝弥氏らは、大石寺の板本尊を偽物として否定する一方、千葉県・保田妙本寺にある万年救護の本尊こそ正しい本尊であるとして、そこへ、信者を結集して、創価学会のような教団をつくることを夢見ていた。そして、これに保田妙本寺の住職が乗りかかっていたからである。松本氏のグループの他にも、妙本寺に出入りしていたグループが三つばかりあり、信者の数は五百近かった。地元の古くからの檀徒に、この数の信者が加われば、寺は、独立してやっていける。そうでなくても、妙本寺は、前の住職の代に、日蓮正宗に帰伏したばかりで、いわば、外様大名のような形であった。なにかと、疎外されてきたことに、住職の強い不満があった。その心は、再び日蓮正宗を離脱して、独立する方向にかたむいていた。」(山崎正友氏の著書『闇の帝王・池田大作をあばく』p197)

 

つまり保田妙本寺は、日郷門流から日蓮正宗に帰伏した寺院であり、鎌倉日桜貫首も、大石寺門流の僧ではなく、日郷門流系の僧だった。そういったところから、外様大名のように扱われ、宗務行政等から疎外されてきたことに、鎌倉日桜貫首が強い不満を持っていたとしている。

日蓮正宗の資料を見ると、1966(昭和41)220日、保田妙本寺50世富士日照貫首が82才で遷化。222日の密葬、36日の本葬はいずれも日蓮正宗が主宰しており、36日の本葬には、大石寺66世細井日達法主が保田妙本寺に下向している。つづいて54日、保田妙本寺51世貫首の晋山式が保田妙本寺で執り行われ、日蓮正宗宗務院代表として早瀬道応(日慈)庶務部長が出席している。通例は、大石寺法主が新住職に対して任命状を下付するのだが、日蓮正宗側の史料に、大石寺66世細井日達法主が保田妙本寺51世貫首に任命状を下付した云々の記事は全くない。この当時、鎌倉日桜氏はまだ日号を名乗っておらず、「高松阿闍梨寛全房」と名乗っていて「鎌倉寛全」の僧名で載っている。「鎌倉寛全」氏が「鎌倉日桜」という日号を名乗る能化に昇進したのは、1972(昭和47)1223日のこと。正本堂落慶法要直後で、松本勝弥氏らのグループとの紛争が続いていた最中のこと。「鎌倉寛全」氏を能化に昇進せしめたのは大石寺66世細井日達法主。「鎌倉寛全」氏の能化名は「観岳院日桜」。この能化名を授けたのも大石寺66世細井日達法主である。よりによってこんな時期に、鎌倉日桜氏を能化に昇進させたのは、「鎌倉寛全」氏の不満を察知した大石寺66世細井日達法主が、日蓮正宗からの離脱を撤回せしめる為の引き留め策だったと考えられる。鎌倉日桜氏は平成7(1995)に、保田妙本寺、顕徳寺、遠本寺を日蓮正宗から離脱させているが、日蓮正宗離脱後も「観岳院日桜」「鎌倉日桜」の名前をそのまま名乗り続けていた。

保田妙本寺1