西山本門寺12客殿


■「富士山本門寺(西山本門寺)2(昭和以降の複雑怪奇な歴史)



西山本門寺とは静岡県富士宮市西山671(旧富士郡芝川町)にある法華宗興門流の本山。西山本門寺とは、通称名で、正式には「富士山本門寺根源」といい、これは北山本門寺の正式名と全く同じ。
そもそも西山本門寺とは、北山本門寺貫首だった日代が、北山を擯出されて後、創建した寺院で、「我こそが、本門寺根源だ」という意味で建てたことから、北山本門寺と全く同じ名前にしたのではないかと思われます。
それは、日代が命名した由来だが、外から見ると「富士山本門寺根源」という寺院が、富士山麓に二つあるのは、紛らわしいので、それぞれ、北山本門寺(重須本門寺)、西山本門寺という通称名で呼ばれていたものと考えられる。
富士宮市内にある西山本門寺の案内標識も、正式名の富士山本門寺根源ではなく、「富士山西山本門寺」となっています。
西山本門寺57入口看板
西山本門寺61行き先案内


西山本門寺も、日蓮の六老僧・日興の法脈を継承する日興門流(富士門流)に属し、静岡県の駿東地方に所在する 日蓮正宗大石寺、下条妙蓮寺、北山(重須)本門寺、小泉久遠寺とともに「富士五山」を構成する。
さらに 京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつにも数えられる。明治期には富士門流の統一教団日蓮宗興門派(のち本門宗)の結成に参加。本門宗、日蓮宗、顕本法華宗の三派合同で、日蓮宗に合同。
ところが1957(昭和32)年に、西山本門寺49代・由比日光貫首の独断で、日蓮宗から離脱して単立となり、その後、なんと日蓮正宗に合同してしまうという暴挙に出た。
これが塔中・末寺・檀家の承認なく、貫首の独断で行ったことから、日蓮正宗宗門・由比日光貫首と、日蓮正宗合同に反対する檀家・塔中・末寺で大紛争になり、最終的にこの紛争は、裁判の場に持ち込まれた。
さらに由比日光49代貫首は、後継者として、何と日蓮正宗宗務院渉外部長の吉田義誠(日勇)氏を指名。吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺大学頭・副住職として赴任。
1965(昭和40)年4月、由比日光49代貫首が遷化(死去)し、吉田義誠(日勇)氏が50代貫首として晋山した。由比日光貫首の葬儀は、西山本門寺客殿で、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が下向して行われている。
西山本門寺貫首と、日蓮正宗合同に反対する檀家との裁判は、最高裁判所まで持ち込まれ、1975(昭和50)年、檀家側の勝訴で最終決着した。
これにより吉田義誠(日勇)氏は、西山本門寺から退出。旧門末・福正寺の森本正明(日正)氏が正式に後任貫首として晋山。
西山本門寺は、日蓮正宗から再び離脱し、法華宗興門流を公称。吉田義誠(日勇)氏は歴代貫首からは除歴され、森本日正氏が50代貫首となっている。
このように、昭和以降、まことに複雑な歴史をたどった寺院であり、ここの寺跡調査も、まことに困難を極めました。