■倶利伽羅不動寺1(倶利伽羅峠源平合戦古戦場・天田峠の近く)

 

□昭和40年代ころまで国道8号線が通っていた天田峠越えの近くにある倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺(くりからふどうじ)とは、石川県と富山県の県境付近にある山頂本堂(山頂堂)と、石川県津幡町の西之坊鳳凰殿がある古刹寺院。寺格は高野山真言宗の別格本山。高野山真言宗は総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)、次に大本山・寳壽院(和歌山県高野町)、そして遺跡本山(ゆいせきほんざん) の神護寺(京都市右京区)、観心寺(大阪府)があり、その次が別格本山で高野山内に27ヶ寺、高野山以外の全国各地に33ヶ寺あるが、倶利伽羅不動寺はその中のひとつということになる。

成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)と並び、日本三不動尊の一つと称される倶利伽羅不動尊とは、通常は約1300年の歴史がある山頂本堂を指す。倶利伽羅(くりから)とは、日本にあって日本ではないような地名であるが、これは「剣に黒い龍の巻きついた不動尊像」という意味のインドのサンスクリット語に由来するという。「倶利伽羅」の名前は、倶利伽羅峠、倶利伽羅そば、JR倶利伽羅駅など、地域の名前になっている。

この山頂本堂は、倶利伽羅峠と呼ばれる石川県と富山県の県境が複雑に入り組んでいる峠越えのてっぺんに近い所にある。正式にはこの峠の名前を「天田峠」という。天田峠の峠越えの道は、今、車で走っても、車がやっとすれ違いが出来るくらいの狭い道。しかも峠の山肌を這うように、曲がりくねって蛇行している山道である。私が子どもの頃は、この曲がりくねって蛇行している天田峠越えの道が、国道8号線の幹線道路であった。こんな狭い道を昭和40年代のころまで、排気ガスを思いっきりはき出して大型トラックやバスが走っていた。富山県に私の母親の実家があるので、子どもの頃、父親が運転する車に乗って、この天田峠を通った記憶がある。

これではあまりにも不便だというので、国道8号線の倶利伽羅トンネルが開通。天田峠越えの山道は、国道から県道に格下げになった。従来からの国道を走っていた大量の自動車交通は、倶利伽羅トンネルを走るようになり、天田峠越えは一気に静かになった。そんな天田峠の峠越えの頂上付近から、さらに奥に入ったところに倶利伽羅不動寺・山頂本堂がある。

今は北陸自動車道が全通しており、さらに国道8号線・津幡バイパスも開通しているので、倶利伽羅不動寺のすぐ近くまで、自動車輸送の波がおしよせることはなくなった。しかし倶利伽羅不動寺は、有名寺院であるためか、倶利伽羅不動寺の名前にちなんで、北陸自動車道には「不動寺パーキングエリア」がある。ただし名前は「不動寺パーキングエリア」とはなっているが、北陸自動車道のわりと倶利伽羅不動寺に近い所に設けられているだけで、ここが倶利伽羅不動寺と繋がっているわけではない。

倶利伽羅不動7



(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 



 

1183年の木曾義仲・平維盛の倶利伽羅峠源平合戦・古戦場の近くにある倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺の近くには、治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱「治承・寿永の乱」(源平の合戦)のひとつである1183(寿永2)年511日の木曾義仲と平維盛の合戦が行われた「倶利伽羅峠の合戦」の古戦場がある。この倶利伽羅峠の合戦は、『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』に記された木曽義仲による「火牛の計(かぎゅうのけい)」が有名。火牛の計とは、どういったものだったのか。倶利伽羅峠古戦場がある津幡町の公式ウエブサイトから引用してみたい。

1183(寿永2)年511日、平家軍の総大将、平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)は、倶利伽羅山中の猿ヶ馬場(さるがばば)に本陣を敷いて、7万余騎の軍勢とともに木曽義仲率いる源氏軍を待ち構えていました。一方、義仲は埴生八幡宮(はにゅうはちまんぐう)で戦勝祈願を行った後、平家の動きに合わせて味方の軍を7手に分け配置させ、夜が更けるのを待っていました。夜半に北側の黒谷の方角から、4,500頭の牛の角に松明(たいまつ)を付け、4万余騎の軍勢とともに平家の陣に突入しました。昼間の進軍で疲れ切っていた平家軍18千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し、何もできずに追い詰められ、人馬もろとも地獄谷に突き落とされました。」

古戦場跡地には、説明板が設置されているが、正式には「砺波山源平古戦場」という。ただし古戦場跡地とはいっても、そこが観光客を呼び込むような大規模な観光開発が行われているわけではなく、あたり一面は山間に囲まれた所。さて木曾義仲と平維盛の「倶利伽羅峠の合戦」にちなんで、津幡町の公式ウエブサイトには、こんな話しが載っているので、引用してみよう。

「津幡町には、平家伝説が数多く残っています。河合谷地区の牛首(うしくび)・木窪(きのくぼ)の両区を始め、津幡地区の平谷(へいだん)や英田(あがた)地区の菩提寺区は、平家の落武者が村の開祖と伝えられています。また、平谷には平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)の墓とされる首塚が残っています。菩提寺から近い「上矢田温泉・やたの湯」は、義仲に敗れた維盛がこの湯を見つけ、傷を癒(いや)したのが始まりとされています。」

津幡町には、「平谷」とか「平村」という姓の人がたくさん住んでいて、これらの人の祖先は、木曾義仲と平維盛の「倶利伽羅峠の合戦」に敗れた平家方の落ち武者である、という話しを、子どもの頃、よく聞かされた記憶がある。倶利伽羅峠古戦場の麓の町・津幡町には「平家落ち武者伝説」がごろごろ転がっている。ただし私としては、これらの「平家落ち武者伝説」には懐疑的です。なぜなら、平家方は合戦に負けたほうであるのに、その落ち武者ないしは子孫が、自分で「落ち武者だ」と言わんばかりの「平谷」「平村」姓を名乗るだろうか。常識的に見て、ちょっと考えにくいことだと思われる。倶利伽羅不動寺の近くには、こういったものが存在している。

倶利伽羅古戦場2


倶利伽羅古戦場4 

(倶利伽羅峠の合戦・古戦場)