■倶利伽羅不動寺2(交通不便な所にありながら参拝者が多い)

 

□倶利伽羅峠越え山頂付近の交通不便な所にありながら参拝者が多い倶利伽羅不動寺

 

倶利伽羅不動寺のある所は、石川県と富山県の県境付近の天田峠から、さらに奥に入ったところ。ここに行くには、電車ではとても無理で、自家用車かバスになる。とはいっても、倶利伽羅不動寺に行くには、倶利伽羅峠(天田峠)の曲がりくねった蛇行した道を登って行かなくてはならない。

近くには国道8号線・津幡バイパスや国道8号線旧道もあることはあるが、天田峠の麓を通っているだけ。国道8号線は天田峠を登らず、倶利伽羅トンネルで石川・富山県境を走り抜ける。

倶利伽羅不動寺の最寄り駅は、JR北陸線の倶利伽羅駅ということになるが、最寄り駅と言うには、倶利伽羅不動寺から、あまりにも遠い所にあるばかりか、倶利伽羅駅から倶利伽羅不動寺、古戦場跡までの交通手段は、ないに等しい。しかもJR北陸線の倶利伽羅駅は、無人駅で、北陸線の各駅停車(普通列車)しか停車しない。JR北陸線とJR七尾線が分岐する津幡駅からも、石川県のターミナル駅である金沢駅からも、倶利伽羅不動寺への交通アクセスはないに等しい。

これだけ交通不便な所なら、参詣者はいないのでは、と思ってしまいがちだが、ところがそんなことはない。縁日の28日には県内外から多数の参詣者が訪れる他、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したと伝えられる本尊が安置された奥之院は3年に1度開扉され、大法要が営まれ、多くの参詣者が訪れる。

私も平日の昼間に、何度か倶利伽羅不動寺に来ていますが、観光バス等を利用して、けっこうたくさんの人が参拝に訪れていた。もっとも中高年の人が大半ではあったが。駐車場には大型観光バスが数台停まっていたので、団体参拝の人ではないかと思われる。

倶利伽羅不動寺の創建は、718(養老2)年に元正天皇の勅願により、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿をそのまま彫刻し、奉安したのが始まりと伝承される寺院であるが、今でもこれほど不便な所であるのに、上古の昔の倶利伽羅不動寺への交通は、どれほどだったのだろうか。津幡町の公式ウエブサイト「歴史国道『北陸道』」から引用してみたい。

「津幡町と富山県小矢部市にまたがる「倶利伽羅峠」を越える旧北陸道は、源平合戦の「火牛の計(かぎゅうのけい)」に関わる史跡や加賀藩の参勤交代(さんきんこうたい)のための往還道など、その歴史的、文化的価値が評価されて、1995(平成7)年6月に国土交通省が進める「歴史国道」の全国12箇所の1つとして認定されました。1996(平成8)年11月には、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれています。

712年(和銅5)年に、越中から加賀へ通じる加越国境の砺波山(倶利伽羅山)の麓に、越の三関(越前・越中・越後)の1つである砺波関(となみのせき)が設けられました。746(天平18)年に越中の国守(こくしゅ)として赴任した万葉集の歌人、大伴家持は、この地で多くの歌を残しました。」

倶利伽羅不動6

(倶利伽羅不動寺・山頂本堂)

 







 

「加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠は、平安時代末期の1183(寿永2)年に源氏と平家が興亡の明暗を分けた倶利伽羅源平合戦の舞台となったところで、木曽義仲(きそ・よしなか)による「火牛の計」の作戦が『源平盛衰記(げんぺいせいすき)』に記されています。

江戸時代には、1635(寛永12)年の加賀藩3代藩主前田利常(まえだ・としつね)の時代から始まった参勤交代の街道として、1601年頃から道路の拡張や松並木、一里塚の設置など本格的な整備が始まり、竹橋(たけのはし)宿は参勤交代で栄えた宿場町でした。当時の交通路には東海道、中仙道、北陸道の3コースがありましたが、藩政全期を通しての参勤交代約200回のうち、東海道利用は9回、中仙道は3回で、残りは全て北陸道を利用したといわれています。当時の街道の道幅は約33間半(5.56.4メートル)で、その両脇には「並松(なみまつ)」と呼ばれた松並木が植えられました。この「並松」は盛土の上に植えられ、盛土の外側の面には芝が敷かれていました。また、加賀藩は道路の管理をする道番人を1里(約4キロ)毎に2人ずつ置きました。

1878(明治11)年、明治天皇の北陸巡幸(じゅんこう=天皇が出かけること)に合わせて勾配が緩やかな天田峠(あまだとうげ)に新道が開削され、1880(明治13)年にはこの新道が国道(現在県道)となりました。このため、倶利伽羅峠越えの街道は、車社会が著しい発展を遂げる以前に旧道となったおかげで、今も往時の街道風情が色濃く残されています。津幡町竹橋から小矢部市桜町までの延長約12.8キロが、歴史国道「北陸道」として整備され、ハイキングコースとして親しまれています。」(津幡町公式ウエブサイト「歴史国道『北陸道』」より)

 

ここにある「勾配が緩やかな天田峠に新道」とあるのは、現在の天田峠越えの蛇行した県道のことである。それが整備されたのが1878(明治11)年、明治天皇の北陸巡幸の時という。その当時は、まだ車社会にはなっておらず、人は徒歩で倶利伽羅峠越えをしていた。これに関する明治・大正のころの逸話を、父親から聞いたことがある。それは父親の祖母、私の曾祖母は、若い頃、カイコの繭(まゆ)を背負って倶利伽羅峠越えをしていた。行き先は今の富山県小矢部市の石動(いするぎ)駅付近。曾祖母は、丸一日かけて、小矢部市石動までを徒歩で往復していたという。

カイコとは、昆虫の一種でクワ(桑)を食餌とし、絹の原料である生糸を産生して蛹(さなぎ)の繭(まゆ)を作る。有史以来養蚕の文化と共に生きてきた昆虫。つまり絹の原料を生産する昆虫と言うことで、昔は重宝がられ、絹が高級品として高く売れたこともあり、カイコ、生糸を扱う人は、昔はおしなべて高収入だったという。そのカイコや生糸は、化学繊維によって押され、廃れてしまったが、私が小学生の頃は、小学校の教室でカイコを飼っていた。その徒歩で倶利伽羅峠を越えていた曾祖母は、昭和30(1955)年に90才で死去。まだ私が生まれる前のことである。

津幡墓2 

(倶利伽羅峠越えをしていた曾祖母の墓)