西山本門寺という寺院は、富士宮市芝山の雑木林というか、鬱蒼とした松林の中にあり、山林の中に隠れてしまっているため、外からは西山本門寺の堂宇は見えません。
しかし西山本門寺の境内は、ものすごい広さで、資料によると360町歩あるといいます。
1町=99aなので、単純に計算すると西山本門寺の境内は356haということになります。
日蓮正宗大石寺の境内が、墓苑等々も含めて約70haということだから、西山本門寺の境内は、大石寺の約5倍弱ぐらいあるということになります。本当にこんなにあるんですかね。
ちなみに□モナコ公国195ha□皇居(東京) 142ha□大阪城公園(大阪) 106.7ha□紫禁城(北京) 72.5haですから、西山本門寺の境内が、モナコや東京の皇居、大阪の大阪城公園よりも数倍広いとは、ちょっと考えにくい。
西山本門寺の境内は、広いことは広いのですが、皇居や大阪城公園よりも広いとは、思えない。
よって360町歩という資料の記述は、信憑性が薄いと思われます。
西山本門寺の表門は、立派な黒門で、小泉久遠寺の黒門とよく似ています。
黒門が表門になっているのは、富士門流では、大石寺、伊豆実成寺、小泉久遠寺と共通しています。
西山本門寺の黒門前には、「下馬の禁札」が立っています。
「下馬」(げば)とは、馬から降りることですが、特に貴人の家の前を通り過ぎるとき、道で貴人に出会ったとき、社寺の境内に入ったときに、敬意を表して馬から降りることを言います。
「下馬札」とは、それより奥は乗馬のままでの通行を禁止することを示した立て札のこと。貴人の邸宅・神社仏閣・将軍屋形・城などに立てられた。これが、西山本門寺の黒門前にあるわけです。
西山本門寺・黒門前には、「下馬札の由来」について、次のように書いてあります。
「当山十八代日順上人が、京都において布教せられた折り、偶々後水尾天皇の姫君常子内親王の御帰依を得ました。朝夕勤行相勤むるようにと、御父君・後水尾天皇、御母君・新広義門院の両御尊牌を常子内親王が御施主となって当山にお納めになり、よって下馬・下乗の禁札を建てることを許されました」
こういうものを見ていると、江戸時代のころの西山本門寺の繁栄ぶりが、なんとなく窺えます。
しかし今の西山本門寺には、昔の栄華は、見る影もないですね。
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