■京都・慈照寺銀閣1(全く銀箔が貼られていない銀閣)

 

□京都・東山で京都駅からのアクセスがかなり不便な所にある足利義政の山荘・慈照寺銀閣

 

慈照寺とは、室町幕府八代将軍・足利義政が鹿苑寺舎利殿(金閣)を模して造営した観音殿・銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られる寺院で、鹿苑寺と同じく臨済宗相国寺派の寺院。ここも「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

ここは、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築というふうに言われるように、京都・洛東の東山になるが、同じ東山でも知恩院、南禅寺、平安神宮、祇園がある東山三条からは、かなり離れている。ここはJRや地下鉄の最寄り駅はかなり遠く、京都駅からのアクセスがなかなか不便。ここへは、修学旅行で来ているほか、自分で旅費を支弁した個人旅行で最初に来たのは、1988(昭和63)年に四国旅行に行く途中。1993(平成5)年の全国旅行でも慈照寺に来ている。これらの個人旅行は自家用車で来たのでしたが、寺跡調査で2008年に慈照寺に来たときは、京都駅から銀閣寺前行きのバスに乗った。しかしこのバスは、京都駅からの所要時間が長い上に、バスの中が大混雑で、始発から終点まで、ずーっと立ち席。かなりきつかったですね。さらにその上に、銀閣寺前バス停で下車してから、慈照寺総門までの距離が長い。しかも、ゆるい登り坂になっているので、京都駅から慈照寺に着いた頃は、かなり体力的に、へばってしまった。バスでここに行くのは、かなりきついものがありますね。

バス停から総門につづく参道脇には、料理店、そば店、露天風の店、みあげもの店、定食店などが軒を連ねている。フランクフルトを売っている店もありましたが、表示は「ウインナー」。京都では、フランクフルトのことを、ウインナーと言うらしい。そういえば、私の子どもの頃、私の母親が「ウインナー」という言葉を使っていた様な気がする。2008年に慈照寺に来たときは、銀閣は修復工事中であった。

通称・銀閣とよばれる堂宇・観音殿は、鹿苑寺金閣と比べたら、実にこじんまりした山荘に見える。一見して、中世の上流階級の山荘か、別荘に見える。名前は「銀閣」と言うが、ここに金箔や銀箔が貼ってあるわけではない。観音殿(銀閣)の後方は、山肌になっていて、月待山の山肌には、展望所があり、山の上から慈照寺銀閣を見下ろすこともできる。慈照寺にも日本庭園が広がっているが、こちらの日本庭園は、鹿苑寺の日本庭園と比べたら、こちらは狭く感じる。

慈照寺銀閣2 













(慈照寺観音殿・銀閣)

慈照寺銀閣4 











(慈照寺総門)

 

 

□慈照寺観音殿には全く銀箔が貼られていないのになぜ通称「銀閣」と呼ばれているのか

 

慈照寺銀閣は、室町幕府八代将軍・足利義政が、祖父・義満の金閣にならって、隠棲生活をするために建てた山荘東山殿。この東山殿が慈照寺銀閣の発祥である。足利義政の死後、臨済宗相国寺派の禅寺へと改められ、名前も足利義政の法号・慈照院に因んで慈照寺と名付けられた。

正式名は東山慈照寺という。室町時代からの建物は、通称・銀閣と呼ばれる国宝・観音殿と、同じく国宝・東求堂だけ。

銀閣は、鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を蹈襲し、本来、観音殿と呼ばれた堂宇。二層からなる建物で、一層の心空殿は書院風。二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を守り続ける意味があるという。この銀閣(観音殿)の向かい側に本堂と国宝・東求堂が建っている。

国宝・東求堂は、足利義政の持仏堂。一層は入母屋造り、檜皮葺きで、南面に仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の二室がある。北面東側の四畳半は同仁斎とよばれ、東山文化を生み出す舞台になった。現存する最古の書院造りで、四畳半の間取りのはじまりと言われている。

ただし銀閣(観音殿)も東求堂も中には入れない。それにしても観音殿は、銀箔が貼られていないのに、どうして「銀閣」と呼ばれるようになったのか。慈照寺発行のパンフレットには、これについて一言の言及もない。フリー百科事典・Wikipedia「慈照寺」の項目には、以下のように書いてある。

「金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことである。1658年(万治元年)に刊行された『洛陽名所集』などの文献に「銀閣寺」の名前が見られる。金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に黒漆は塗られているが銀箔は使用されていない。『当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった』という説や、『銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった』という説、『外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから』という説がある。また、『当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった』という説もあったが、2007年(平成19年)15日に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている。ちなみに、義政の妻・日野富子は資金援助を一切しなかったともいわれている。」(フリー百科事典・Wikipedia「慈照寺」)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E7%85%A7%E5%AF%BA

これによれば諸説紛々としていて、定説がないようですね。2008年に慈照寺銀閣を訪れた時は、修復工事中だったが、これは20103月で終了している。それと2008年に行った時に目に付いたのが、大勢の外国人観光客。中でも中国・韓国・台湾からの観光客。ここも世界文化遺産に登録されて知名度が上がったので、来ているのだろうか。それとも他の理由からなのだろうか。

慈照寺銀閣3











(慈照寺観音殿・銀閣)

 慈照寺銀閣1












(東求堂から見た慈照寺銀閣)