■京都・鹿苑寺金閣4(天皇になろうとした男・足利義満と金閣2)

 

□井沢元彦氏が「逆説の日本史」で書く『天皇になろうとした男』足利義満と鹿苑寺金閣2

 

鹿苑寺金閣は、日本国王・足利義満の宮殿だったという井沢元彦氏。そうなると、金閣が建立されることになった根源は、足利義満が「源道義」の名前で明国皇帝から「日本国王」に封じられたことになる。ではなぜ、足利義満は、明国の冊封体制の中に入る屈辱外交で明との国交を開き、明国皇帝から「日本国王」に封じられて日明貿易をはじめたのか。この淵源について、井沢元彦氏は、南北朝の紛争で、南朝の皇子で九州を一時征服した懐良親王が明国と結んで、明国の冊封体制の中に入る屈辱外交を行ったからだとする。「逆説の日本史」から要旨を引用してみる。

-----「日本は、遣唐使の廃止(894)以降、中国とは貿易はするが正式な国交は持たなかった。貿易ならば中国の宮廷を通さなくても民間商人を相手にすれば可能だからだ。日本人の『実力者』にとって、中国と正式な国交に踏み切るのはタブーであった。なぜタブーであったかは、中国は外国との対等な関係を認めないから、国交を開きたければ卑弥呼のように、皇帝に貢ぎ物を奉り『あなた様の家来でございます』と言わねばならない。この『屈辱的』な外交を、久しぶりに展開したのが、南朝の皇子で九州を一時征服した懐良親王。国が二つに割れた場合、権力者が絶対にしてはならないことが一つある。それは外国勢力と結ぶことである。言うまでもなく、それをやれば外国の介入を招き、最悪の場合、領土が奪われることになる。イギリスが、自分の国よりはるかに大きなインドを征服したのも、このやり方であり、こういう措置が不幸を招いた例は数限りない。いかに苦し紛れとはいえ、足利幕府憎しとはいえ、外国に『臣従』を誓ってはいけない。こういう形をとれば、いずれ『日本国王からの要請があった』という口実で、中国は日本に軍を派遣できる。しかし、足利義満の最初の外交課題は、『日本国王』を懐良親王から奪うことであった。

足利義満は、なぜ懐良親王の持つ『日本国王』の称号を狙ったのか。一つは、南朝が明と結んだら大変なことになるという危機感である。明は超大国である。その超大国が懐良の要請を聞き、日本に攻めてきたら、まさに元寇の二の舞になってしまう。しかしそれだけではない。それだけなら、『日本国王』懐良だけを討ってしまえばそれで済む。足利義満が『日本国王』の座を狙った、もうひとつの目的は、天皇家を乗っ取ってしまうためである------「逆説の日本史」7巻主旨)

足利義満は、『日本国王』を懐良親王から奪うため、天皇家を乗っ取ってしまうために、まず南朝と北朝の二つに分かれていたのを、合一させる「南北朝の合一」からはじめた。なぜ「南北朝の合一」からはじめなければならなかったのか。それは南朝が持っていた「三種の神器」「錦の御旗」を北朝に取り返させるためだと、井沢元彦氏は「逆説の日本史」で書いている。

逆説の日本史7 

(井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』)

 

 

------この時代の南朝は軍事的には壊滅状態であった。確かに軍事的には、ほぼ決着がついていた。だが南朝はいまだに『正統なる天皇家』という権威の証明である三種の神器を保有していた。これがある限り、南朝はいつでも『錦の御旗』つまり戦いの大義名分として『かつがれる』可能性をもっている。義満の反対勢力が南朝を『かついで』、義満追討の綸旨を出させれば、『反乱軍』は一転して『官軍』になる。現に足利尊氏と直義の兄弟が争った時、滅亡寸前だった南朝は、直義がかついだことによって息を吹き返した。天皇家が脅威なのは、軍事力があるからではない。問題は『錦の御旗』なのだ----「逆説の日本史」7巻主旨)

1391年(明徳2年の明徳の乱で有力守護・山名氏を弱体化させ、武家勢力を統率した足利義満は、和泉・紀伊国守護・大内義弘の仲介で和睦交渉を開始。南朝から北朝への神器の引渡し、国衙領を大覚寺統、長講堂領を持明院統の領地とする事、皇位は両統迭立とする事など3か条を条件に和睦が成立し、1392年(元中9/明徳3年)に後亀山天皇は京都へ赴いて大覚寺において神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一が成立した(明徳の和約)。

-------しかし北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、勅使を大覚寺に派遣して神器を宮中内侍所に遷した。北朝は、あくまでも三種の神器について「行方不明になっていた神器が戻ってきた」という主張を崩さず、後亀山天皇を上皇にするなど許せぬという態度をとり続けた。しかし足利義満はこの点だけは強引に押し切り、「不登極帝に与える礼敬」として、後亀山に上皇の尊号を奉ることには成功した。「不登極帝」とは、「天皇に即位しなかった人」の意味。北朝は後亀山の即位も、治天の君としても認めていなかった。-----「逆説の日本史」7巻主旨)

足利義満が、北朝の反対を押し切って「不登極帝」ながらも後亀山に上皇の尊号を奉ることには成功した、ということは、朝廷の人事権を足利義満が握ったということに他ならない。

次に足利義満は、明国に入貢し日本国王の称号を得た。足利義満は国書に「日本国王臣源道義」と署名した。井沢元彦氏は足利義満の屈辱外交について「逆説の日本史」でかく書いている。

--------ここで注目すべきことは、これまで外国への国書はすべて朝廷が起草していたのを、義満の国書から禅僧が担当するようになった。これは朝廷の持っていた外交権が、足利義満の手に移ったということだ。そうでないかぎり、朝廷から見て極めて『屈辱的』な国書が作成されるはずもない。義満は首尾良く明から『日本国王』の称号を正式に得ることに成功した。これは朝貢という形の貿易によって莫大な利益を得るという実利もある。天皇を無視し関白に土下座させた義満も、明の使者がやってきた時は逆に三拝九拝して接待した。これは昔から『屈辱外交』として極めて評判が悪いが、義満にしてみれば、あくまで天皇家を乗っ取るために、国際的な権威を利用するというのが本音だったろう。こうして義満は正式な日本国王になった。王には宮殿がいる。その宮殿こそ、「金閣」であった。------「逆説の日本史」7巻主旨)

足利義満1 






(足利義満の肖像画)

鹿苑寺金閣5

(鹿苑寺金閣)