■諸宗山回向院4(回向院相撲・大鉄傘・日大講堂・創価学会本部総会)

 

□江戸時代に今の大相撲の前身である勧進相撲・回向院相撲が行われていた両国回向院

 

江戸時代後期になると、勧進相撲の定場所が回向院に定められ、明治末期までの76年間、いわゆる回向院相撲の時代を日本相撲史上に刻んでいる。回向院には「国技館(大鉄傘)跡」と題する墨田区教育委員会が建てた案内板が建てられていて、そこにはこんなことが書いてある。

「現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある『回向院相撲記』には、天保4(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院境内に明治42(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は、大鉄傘とも呼ばれ、13千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。

相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は、本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58(1983)に解体されました。そして同60(1985)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館(両国国技館)が完成。「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在、複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています」

 

相撲そのものの歴史は古く、古墳時代の埴輪等に、その様子が描写されている。『古事記』の垂仁記には、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと)の文字が現れる。『日本書紀』の雄略天皇13年(469年)には、最古の女相撲の記録があり、記録上にはじめて「相撲」の文字が出てくる。

平安時代になると、宮中で行われた相撲節会のほかに、民間の相撲も大いに行われ、一般庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれ、武士たちの実戦で用いる組み打ちの鍛錬であった「武家相撲」もあった。興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。現在の大相撲は神社仏閣の再興や造営の費用を捻出するための江戸時代初期の勧進相撲に端を発している。勧進(かんじん)とは、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つのことだが、仏教寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める行為のことを指して「勧進」というようになった。勧進相撲の「勧進」は、各国の力士集団が勧進元との契約によって招かれて相撲興行に参加するという形式に由来するものと思われる。これの名残として今でも大相撲地方巡業の主催者のことを勧進元とよぶ。

いわば両国回向院は、今の大相撲発祥の地とも言える所で、1936(昭和11)には、大日本相撲協会が物故力士や年寄りの霊を祀る「力塚」を建立している。

 

 

□浄土宗回向院境内にあった日大講堂で本部総会等の行事に280回も使用していた創価学会

 

墨田区教育委員会が建てた案内板にある複合商業施設とは、回向院に隣接する両国シティコアである。ここがかつての大鉄傘と呼ばれた旧国技館、日本大学講堂(日大講堂)だった。日大講堂では、日本大学の入学式、卒業式の他、プロレス興行、ボクシング興行、コンサート、歌手の公演等々が行われた。日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得したジャイアント馬場のジャック・ブリスコとの初防衛戦、大場政夫のWBA世界フライ級タイトルマッチが行われている。

1954(昭和29)から創価学会が本部総会や男子部総会、女子部総会、学生部総会、本部幹部会等々の会場として使用するようになる。1954(昭和29)から大石寺法主や日蓮正宗宗務院首脳を招いての創価学会本部総会はこの日大講堂で行われており、1960(昭和35)の池田大作三代会長就任の本部総会、1964(昭和39)の公明党結党大会、1970(昭和45)の言論出版妨害問題による池田大作会長おわび講演の本部総会も、日大講堂で行われている。

創価学会は、本部総会、各部総会、本部幹部会等々で1954年から1977年までの間に、実に280回も日大講堂を使用している。1954年から1977年までといえば、まさに創価学会の強引・非常識な折伏の全盛期である「折伏大進撃」の時代。創価学会は会員数を激増させた「折伏大進撃」の時代の本部総会を毎年、浄土宗寺院・回向院の境内にあった日大講堂で行っていた。しかも本部総会のみならず、本部幹部会、男子部総会、女子部総会、学生部総会、公明党結党大会等々の行事に何と280回も使用していた。ところで、創価学会員は、創価学会の強引・非常識な折伏の全盛期である「折伏大進撃」の時代の本部総会等が行われていた日大講堂が、回向院境内にある施設だということを知っていたのだろうか。まあ、あの当時、創価学会の大がかりな行事を定期的に開催できる会場は、東京都内ではここしかなかったということだろうか。

1970(昭和45)の言論出版妨害問題による池田大作会長おわび講演の本部総会のあと、1976(昭和51)創価学会は本部総会を日本武道館や創価学会会館で行うようになる。

1977(昭和52)1978(昭和53)は創価学会本部総会は行われず、1979(昭和54)53日、創価学会は大石寺66世細井日達法主を招き、池田大作会長勇退と名誉会長への転身、北条浩四代会長就任の第40回本部総会を創価大学体育館で行った。いわゆるこれが第1次宗創紛争の宗創手打ち総会と言われた本部総会である。創価学会はこの時の本部総会を最後に、本部総会という行事そのものを行っていない。本部幹部会や男子部総会、青年部大会などの行事は全て創価学会本部や会館で行っている。日蓮正宗や創価学会が「念仏無間地獄」と非難する回向院にあった日大講堂で本部総会を行っていた時代は、まさに創価学会の全盛期と重なり、その反面、創価学会が創価学会会館や創価大学で行事を行うようになってから、創価学会の衰退期と重なるというのは、何とも皮肉な話しである。

出開帳6 

(東京両国・回向院)