西山本門寺・黒門から、石段を登って、延々と参道を登っていくと、塔頭坊の前を通り過ぎて、ようやく客殿の前にたどり着きます。客殿は、参道の西側にありますが、参道の石段は、さらに客殿の北側へと延々と続いています。

西山本門寺の中心堂宇は、客殿です。かなり大きな堂宇で、巨大な建物の風格は堂々たるものです。どことなく日蓮正宗大石寺の客殿に似ている感じがします。

 

インターネットを検索していると、この建物を「本堂」と書いてあるサイトがいくつもあります。西山本門寺の本尊を研究している京都・要法寺僧侶・柳沢宏道氏の著書「西山本門寺本尊の考察」という本を見ても、客殿のことを「西山本門寺本堂」と書いてあります。

が、私は敢えて本堂とは書かずに、客殿と書きました。というのは、今回の訪問記の前に

「西山本門寺の現本堂は、元々は客殿であり、本堂は別にあったのですが、火災で焼失したまま、本堂は再建されず、客殿を本堂かわりに使っている」

という情報をいただいたからです。

 

「では、もともとの本堂はどこにあったのか」という疑問が沸いてくるわけですが、西山本門寺の古図を見ると、客殿からさらに石段を上がって行ったところに、大きな伽藍があるのがわかります。これが旧本堂のようです。

 

西山本門寺の客殿は、表の戸の内側からカギがかかっていて、中に入れないため、中の様子がわかりません。が、外から見た感じとしては、やはり本堂というより、「客殿」に見えます。

西山本門寺の中心堂宇は、この客殿であり、これと隣り合わせに、庫裡があり、庫裡の後方には、「織田信長の首塚」と称する堂宇が建っています。

客殿の正面には、鐘楼があり、大晦日には、除夜の鐘が鳴らされるとのこと。

 


西山本門寺29客殿


客殿の入り口の戸の上には、「本門寺 五十世日正」と書かれた額が掲げられています。五十世日正とは、西山本門寺50世貫首・森本日正氏のことですが、これは森本日正氏が貫首になってから、掲げられたということになります。

ちなみに、日蓮正宗の信者・原進氏が発刊した写真集「正法の日々」に、西山本門寺が日蓮正宗に合同していた時代に撮影された客殿の写真が載っていますが、当然のことながら、この扁額は映っていません。

 

客殿の入り口の戸は、いつ行っても内側からカギがかかっているため、中の様子が伺いしれないわけですが、前出の写真集「正法の日々」に、西山本門寺客殿須弥壇を正面から撮った写真が載っており、柳沢宏道氏の著書「西山本門寺本尊の考察」には、須弥壇の図解と解説文が載っています。須弥壇の正面から撮った写真は、まことに注目されますが、御宮殿の中には、日蓮の木像が映っていて、後ろには漫荼羅本尊が見えません。

「西山本門寺本尊の考察」の図解によると、「御影尊」(日蓮の木像)の左側には、日蓮絵像、右側には日興絵像があり、「御影尊」の後ろには、板本尊があると記されていますが、

「前よりは板本尊は見えない」(西山本門寺本尊の考察・p8)

と注記がしてあります。

 

なぜ見えないんでしょうね??わざと見えないように、配置しているということでしょうか。

 

ちなみにこの板本尊とは、西山本門寺に格蔵されている「建治二年太才丙子二月五日」の日付が入った大漫荼羅本尊を板に模刻した本尊であるとのこと。

しかし「建治二年太才丙子二月五日」の大漫荼羅は、立正安国会の「日蓮大聖人御真蹟御本尊集」には載っていませんが、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨は、「富士宗学要集」第8巻に、西山本門寺の「建治二年太才丙子二月五日」の大漫荼羅本尊を、日蓮真筆だとして、載せています。私は、真偽未決だと考えていますが、首題の下、日興添書の部分がとても不自然に見えることなどから、限りなく偽筆に近い曼荼羅であると考えています。