西山本門寺客殿は、とても大きな建物であり、江戸時代に権力の庇護のもとに栄えた西山本門寺の繁栄ぶりがうかがえます。

私としては、ぜひともこの客殿の中を見てみたいのですが、いつ来ても、この客殿の入り口の戸は閉まったまま、内側からカギがかけられています。そうなると、何かの法要の時に来るしかないのですが、この法要も毎月、定例の年中行事が行われているわけではないので、この中に入るというのは、なかなか至難の業です。

あとで、貫首代務者の山口亮祐氏と話した時に、4月のお風入れと11月の御会式しか行われていないと云うことなので、この時に来るしかないようです。


西山本門寺9客殿


 

ところで、いつ客殿の中に入るチャンスが巡ってくるのか、わからないので、私もいろいろと調べたところ、ずいぶん昔の西山本門寺・客殿訪問記として

「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊(万年救護本尊)の発見」

と題するものを発見しました。これは昭和3839年ころ、由比日光貫首の代のときに、本門正宗・小野寺直(日了)氏が西山本門寺客殿を訪れたときのものです。この当時は、由比日光貫首が、独断で日蓮正宗に合同しようと画策し、塔頭・末寺・檀家と大きな紛争になっていた最中のころのことです。

この小野寺という人物も、謎めいた人物で、一説によると、日蓮正宗の元信者・創価学会の元信者ということなので、日蓮正宗・創価学会の信者として訪れたのではないかと思われます。

この「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊の発見」という文が、近年、ブログとしてインターネット上に流れているようですが、小野寺氏が書いているものなのかどうかかは、不明です。

 

この「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊(万年救護本尊)の発見」によると、西山本門寺客殿の脇に、「尊霊殿」という小堂の内陣があり、ここに北朝の後水尾院や、新広義門院、明治陛下並びに、歴代徳川将軍、武田信玄や勝頼の霊牌とともにその中央に、保田妙本寺に格蔵される「万年救護大本尊」を板に模刻したレプリカ、いわゆる模刻板本尊が祀られている、ということです。

そして西山本門寺客殿の御宮殿の須弥壇に上ってみたところ、日蓮が「建治二年太才丙子二月五日」の日付が入った大漫荼羅本尊を板に模刻したレプリカ、いわゆる板本尊であったといいます。

面白いのは、西山本門寺では、日蓮が「建治二年太才丙子二月五日」の日付が入った大漫荼羅本尊のことを「万年救護の本尊」と呼んでいるということです。

 

さらに「万年救護の大本尊」のレプリカ板本尊が西山本門寺客殿の「尊霊殿」という小堂の内陣に祀られている縁由について、静岡県文化財調査員の山口稔氏の話しを紹介しています。

これによると西山本門寺・客殿の尊霊殿にある万年救護の大本尊は

「江戸時代の初めの頃、小泉・久遠寺、保田・妙本寺両山の住職に日濃と称した人がいて檀家と争いを起こし、その訴訟費用を捻出の為に文永十一年(1274)十二月に身延山中で紙本に認められた「万年救護大本尊」を江戸市中の金貸しに入質して金五百両を借用した結果、「万年救護大本尊」は質流れして売りに出された。それを西山本門寺の住職が勧進元となり、拠金の寺寺に「万年救護大本尊」を板に摸刻して、勧請せしめる条件で金子を集め質受けした。その時の質請証文は現在も西山本門寺に保存されている。」

というものです。

 

保田妙本寺・日濃事件は、富士門流を巻き込んだ事件として有名ですが、客殿の中の様子が、果たして「日目上人正嫡の由緒と本因妙大本尊の発見」という文のとおりなのかどうかは、入ってみないとわかりません。