■京都方広寺・豊国神社3(不吉・不運な方広寺大仏)

 

□日蓮宗不受不施派弾圧の発端になった方広寺大仏殿・千僧供養会の日奥の出仕拒否

 

そもそも京都・方広寺とは、1586(天正14)年に、永禄10年(1567年)の三好・松永の戦いの兵火により焼失した、東大寺大仏殿および大仏にかわるものとして、豊臣秀吉が発願。1588(天正16)年に、京都・渋谷に移転した真宗仏光寺の跡地に建造した。1591(天正19)年に立柱式、1593(文禄2)年に上棟式、1595(文禄4)年に落慶した。この時に建造された大仏は、六丈三尺(20メートル)で、東大寺の大仏が五丈三尺だったから東大寺大仏よりも巨大だった。ただし東大寺大仏は金銅仏だが、方広寺大仏は、刀狩りで没収した刀を再利用した釘も使われたが、大仏そのものは当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造された。大坂城内に莫大な金銀を貯蔵するなど巨大な経済力を持つ豊臣秀吉が、なぜ当初の銅造ではなく、木像漆箔の大仏として建造したのかについて記した文献がどこにも見あたらない。単に安価に仕上げようとした「手抜き」だったということだろうか。しかしその後、方広寺大仏のまわりには、不運・不幸がまとわりつく。

1595(文禄4)年の方広寺大仏殿の落慶で、秀吉は亡父母の追善のために、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、真宗の各宗派の僧に出仕を命じ、千人の僧の出仕で千僧供養会を行った。この千僧供養会に、日蓮宗不受不施派の日奥が出仕を拒否。これが江戸時代の不受不施派弾圧の発端になった。千僧供養会は、仏教界が秀吉に臣従するのか、しないのかを見極めるために、秀吉が敷いた「踏み絵」ではなかったのかと思われる。千人の僧が出仕する大法要は、あまりにも巨大で、出仕する千人の僧の食事を準備した台所が今も妙法院に遺る。

ところが千僧供養会の翌年の1596(文禄5)年の慶長伏見地震により、方広寺大仏は倒壊。大仏殿は倒壊を免れた。

秀吉は、倒壊した大仏のかわりに、方広寺に善光寺如来を祀ることを計画。1597(慶長2)年に、善光寺如来が京都に到着。方広寺に遷座された。ところが秀吉は1598(慶長3)年に病に伏し、さらに厳暑の夏に雪が舞うという珍事が起こった。これが善光寺如来の祟りではないかと噂され、善光寺如来は817日に善光寺に戻される。がしかし秀吉は翌日の818日に死去する。

1599(慶長4)年に、淀君・豊臣秀頼母子が、金銅大仏の再興をはかるが、1602(慶長7)年に鋳造中の大仏から火災が発生。造営中の大仏と大仏殿が焼失してしまう。

今度は徳川家康の勧めで豊臣秀頼が三度、方広寺大仏の再興を志す。1608(慶長13)年に大仏再建の工がはじまり、1610(慶長15)年に立柱式、1612(慶長17)年に大仏金箔が完成。1614(慶長19)年に梵鐘が完成。創建時よりも大きな大仏殿も完成。あとは徳川家康の承認で落慶開眼法要を待つだけ、となったところで、家康は開眼供養の延期を命じる。南禅寺僧・清韓作の方広寺梵鐘の銘文に不吉の文言ありとて、家康が激怒する方広寺「国家安康」鐘銘事件がおこる。

 

 

□二度の地震倒壊、三度の火災焼失、豊臣家滅亡の発端になった不吉・不運な方広寺大仏

 

1614(慶長19)年、大坂冬の陣が起こり、いったんは両軍が講和するが、翌年1615(元和元)年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。しかしその後、豊国廟、豊国神社は幕府によって取り壊されたが、方広寺、大仏、大仏殿、梵鐘は残された。大坂の陣の発端になった方広寺「国家安康 君臣豊楽」鐘銘事件の証拠を、徳川幕府は後々の世まで遺しておきたかったのではなかろうか。徳川家康によって、取り壊された豊国神社は、明治維新後の1880(明治13)年に再建されている。

豊臣秀頼が再建した方広寺金銅大仏は、1662(寛文2)年の地震で倒壊。大仏は1667(寛文7)年に木造で再興され、倒壊した金銅大仏は寛永通宝の原料とされた。さらに再建された木造大仏は、1798(寛政10)年の落雷による火災で焼失してしまう。これ以降、大仏も大仏殿も再建されていない。1843(天保14)年に尾張国有志が上半身のみの木造大仏を再興・寄進したが、これも1973(昭和48)年の火災で焼失してしまう。

こうして歴史的に見ると、地震による倒壊が二度、火災による焼失が三度、梵鐘の鐘銘は、大坂の陣の発端になって、方広寺建立・大仏再建を発願した豊臣家は滅亡。豊臣秀吉の千僧供養会は、出仕を拒否した日奥らの不受不施派弾圧の発端になり、不受不施派弾圧で、それこそ無数の人が尊い命を落とす結果になった。そう考えると、まことに不吉きわまりない、不運きわまりない大仏ということになる。

それから木造の大仏、木像漆箔の大仏というのも珍しい造りである。世界的に見ても大仏というのは、巨大な石仏か、ないしは金銅仏がほとんどなのではないか。それが木造の大仏とか、木像漆箔の大仏と聞くと、安価な「手抜き」という印象が免れない。それから二代目の銅製金箔貼りの大仏が、地震で倒壊したということだが、金銅大仏が地震で倒壊したというのも珍しい。東大寺大仏の首が落ちたのは、永禄10年(1567年)の三好・松永の戦いによる戦災であって、地震が原因ではない。金銅大仏の鎌倉大仏は、大風、地震、津波によって大仏殿は倒壊したが、大仏は倒壊していない。

安土桃山時代に、全国を平定して強大な権勢をふるった豊臣秀吉が、銅製大仏に似せた木像漆箔の大仏を造営させたというのも謎である。大坂城、伏見城、聚楽第など、巨大で豪華絢爛な建造物を造営してきた豊臣秀吉が、大仏だけは「手抜き」をしたとしか思えない。大坂城、伏見城、聚楽第などの造営には莫大な費用をかけても、大仏には費用をかけたくなかったのだろうか。そんな大仏が、最終的には豊臣家滅亡の発端になり、豊臣家にとってはまことに不吉・不運な大仏になったというのは、歴史の皮肉という以外にない。

方広寺2方広寺1 






















(方広寺梵鐘)

豊国神社1 








































(豊国神社)