客殿前で掃除をしていた女性の話しを聞いた後、私は、庫裡・客殿の裏側にある「信長の首塚」のあるところに行ってみることにしました。
「なんで西山本門寺に、信長の首塚があるのか」という疑問があり、「教育委員会が建てた、何らかの案内板でもあるのかな」と思いつつ、その首塚に向かって歩いて行きました。
庫裡の前には、「庫裡の裏手に、信長の首塚がある」という西山本門寺の案内板がありました。
インターネット・フリー百科事典・Wikipediaでも、「その他、各地に供養塔・伝承を持つ旧跡」のひとつとして、「伝織田信長の首塚」として、西山本門寺の信長の首塚を紹介していることから、本当に信長の首塚なのかどうかという点については、疑わしいものではないかと思われます。
「織田信長」
インターネット・フリー百科事典・Wikipediaの記事に依れば、織田信長の廟・供養塔と称する建物は、京都・本能寺をはじめ全国に十ヶ所以上あり、その中では、京都市上京区寺町の蓮台山阿弥陀寺の「織田信長公本廟」が、豊臣秀吉から遺骨の差し出しを求められていることから、信憑性が高いとしています。
さて庫裡・客殿の裏手にまわってみると、大きな柊の木があり、これは静岡県の天然記念物に指定されている旨の、富士宮市教育委員会の案内板が建てられていました。
その柊の木のすぐそばに、「信長の首塚」と称する建物がありますが、これについては、富士宮市教育委員会の案内板はありません。西山本門寺が建てた首塚の由来を書いた案内板があるだけでした。
西山本門寺の境内には、富士宮市教育委員会の案内板がいくつも建てられていることから、ここに富士宮市教育委員会の調査が入っていることは明らかで、国が文化財と認定した古文書については富士宮市教育委員会の案内板が建てられています。
しかし、「信長の首塚」と伝承される建物には、富士宮市教育委員会の案内板がないことから、これは、「信長の首塚」として認められていないということに他ならない。
インターネット・フリー百科事典・Wikipediaの記事も、「伝織田信長の首塚」としており、「伝」の一文字がついていることに注目すべきです。
歴史的な経緯からしても、そもそも西山本門寺に信長の首塚かあること、本能寺の変の最中に、信長の首を持ち出した、などとする伝承そのものに疑義があります。
さて、この「信長の首塚」と伝承される建物は、庫裡・客殿の裏側にあるのですが、こちらから庫裡を見ても、固く窓は閉じられ、内側からカーテンが閉まったまま。
誰も住んでいない、完全な幽霊屋敷と化している感じが見て取れました。
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