■真宗本廟・東本願寺2(親鸞已来代々血族の門主継承)

 

□石山本願寺合戦・本願寺の東西分裂により人工的に生まれた真宗本廟・東本願寺

 

浄土真宗大谷派本山・真宗本廟・東本願寺へは、何度も行っており、直近では20141月に参拝している。私は、ほぼ12年に1回くらいのペースで京都に行っているのだが、東本願寺には何度も行っている。というのは、東本願寺は地理的にJR京都駅からとても近い所にある。JR京都駅烏丸口から北へ伸びる烏丸通り沿いに東本願寺があるのだが、東本願寺の前で、烏丸通りが東側にグニャリと道が曲がりくねる。これは地上を歩いているとよくわからないが、JR京都駅烏丸口の前にある京都タワーの展望室から見ると、グニャリと曲がりくねる烏丸通りが実によく見える。

東本願寺門前の、御影堂門・阿弥陀門と曲がりくねった烏丸通りの間は、東本願寺の大きな行事等で団体参拝があったときに、バスターミナルに早変わりするようである。

東本願寺に行くと、今まで寺院の堂宇・伽藍よりも、東本願寺前でグニャリと曲がりくねる烏丸通りのほうが、印象に残っていた。というのは、東本願寺の場合、巨大な御影堂、阿弥陀堂や御影堂門、阿弥陀門は印象的なのだが、仏教寺院の総本山や大本山によく見られる塔中子院がない。

だから御影堂と阿弥陀堂と、曲がりくねった烏丸通りが印象に残っていた。

真宗本廟・東本願寺に塔中子院がないのは、東本願寺が江戸時代初期に徳川家康の寄進で造営されたという創建因縁が大きく関係していると思われる。つまり真宗本廟・東本願寺は、仏教寺院の総本山や大本山のように「自然発生」的に生まれたのではなく、本願寺の東西分裂、徳川家康の寄進、本願寺を東西に分裂させたまま固定化するという江戸幕府の宗教政策という、いわば「人工的」に生まれた寺院であることが大きいと思われる。では真宗本廟・東本願寺は、どういう経緯で生まれたのか。島田裕巳氏監修「はっきりわかる日本の仏教宗派」(成美堂出版)の記事を元に話を進めてまいりたい。

真宗本廟・東本願寺の創建は1602(慶長7)年。1600年の関ヶ原の合戦の二年後、1603年の徳川家康の征夷大将軍任命の前年である。なぜ真宗本廟・東本願寺が生まれたのか。これは有名な本願寺の東西分裂によって生まれた。ここまでは知っている人は多いと思われる。

本願寺がなぜ東西に分裂したのか、というと、織田信長と石山本願寺の合戦である「石山合戦」の終結をめぐって、退去か籠城かで意見が分かれたことが発端である。本願寺11代門主・顕如(15431592)を中心とする勢力は織田信長との講和を受け容れたのに対して、顕如の長男である教如を中心とする勢力は、これを拒んで籠城を主張した。そのため、教如は顕如から義絶されてしまう。石山本願寺の織田信長明け渡し後、石山本願寺は火を放たれ灰燼に帰してしまう。

教如は大和、近江、安芸など流浪するが織田信長が本能寺の変で死去すると、顕如と教如は和解する。その後、豊臣秀吉の天下統一の翌年、1591(天正19)年、豊臣秀吉が京都七条堀川に広大な寺域を寄進する。これが今の西本願寺である。本願寺11代門主・顕如の没後、12代門主は当初は顕如の長男・教如が後を継いだ。

 

 

□「大谷」姓を名乗る親鸞已来の代々の血族が門主(門首)を継承してきた真宗本廟・東本願寺

 

しかし豊臣秀吉は、教如が父・顕如から義絶されたことがあること、石山合戦で最後まで籠城を主張して織田信長に反抗したこと等を理由に、教如が本願寺門主を務めることに異を唱える。

しかし豊臣秀吉は10年に限り教如が本願寺門主を務めることを認める裁決を下すが、教如派はこれを不服としたため、豊臣秀吉は教如を直ちに隠退させ、本願寺11代門主・顕如の三男・准如を12代門主とした。しかしその後も教如は、教如を支持する末寺や門徒に絵像を授与するなどの門主としての活動をつづけた。こうした中で教如と徳川家康が接近していく。1598年の豊臣秀吉の病没、1600年の関ヶ原の合戦で徳川家康が全国の覇権を掌握すると、1602(慶長7)年、徳川家康は京都烏丸六条に寺地を教如に寄進。さらに徳川家康の仲介によって、群馬県妙安寺伝来の親鸞座像(ご真影)が教如に寄進され、ここに東本願寺が造営された。徳川家康は、教如を中心とする教団を追認したわけだが、これは巨大勢力を保って織田信長に約十年にわたって石山合戦を挑んだ本願寺教団を東西に分裂させたまま固定化し、弱体化を図った徳川家康の宗教政策であるとする説が一般的である。

さてここで本願寺11代門主・顕如の長男・教如だの三男・准如だのと書いたので、不思議に思った人もいたと思われる。明治時代以前は、基本的に僧侶は独身が常識だった。ところが浄土真宗の開祖・親鸞は妻帯して子どもをもうけて家庭をもった。親鸞在世の時代とは鎌倉時代のことであり、この時代の僧侶の妻帯はまさに異色であった。本願寺は、その宗祖親鸞の血族が代々の門主を継承してきている。つまり本願寺門主は、親鸞の子孫による世襲制である。これは東本願寺も西本願寺も同じで、親鸞已来の代々の血族は「大谷」姓を名乗る。現浄土真宗大谷派第二十五代門首は大谷暢顯(おおたにちょうけん)はで、法名は「淨如」。東本願寺歴代門首を見てみると

親鸞 – 2代 如信 – 3代 覚如 – 4代 善如 – 5代 綽如 – 6代 巧如 – 7代 存如 – 8代 蓮如 – 9代 実如 – 10代 証如 – 11代 顕如 -

12代 教如 - 13代 宣如 - 14代 琢如 - 15代 常如 - 16代 一如 - 17代 真如 - 18代 従如 - 19代 乗如 - 20代 達如 - 21代 嚴如 - 22代 現如 - 23代 彰如 - 24代 闡如 - 25代 大谷暢顯(淨如)

となる。宗祖親鸞から11代 顕如までは東本願寺も西本願寺も同じ。12代 教如から東本願寺の歴代になる。真宗本廟・東本願寺の宗派名を「真宗大谷派」といい、教育大学を「大谷大学」というが、真宗本廟・東本願寺門首だけではなく、西本願寺門首、浄土真宗東本願寺派本山(東京)東本願寺法主、(東山上花山)本願寺門主、(嵯峨野)本願寺法主を勤める親鸞已来代々の血族も「大谷」姓を名乗る。

東13 



















(京都タワー展望室から見た真宗本廟・東本願寺)