□建仁寺開山・栄西禅師八百年遠忌記念で行われた東京国立博物館特別展「栄西と建仁寺」

 

201453日、東京上野の東京国立博物館に特別展「栄西と建仁寺」の見学に行ってきた。当日はJR上野駅不忍口に出て、レストランで食事。それから博物館に向かった。JR上野駅という駅は、駅構造が実に複雑になっている。「はて、不忍改札にはどうやって行ったらいいんだっけな」と、駅ホームの案内板を見ながら不忍改札へ歩いて行った。私は東京に住んでかれこれ35年になろうとしているが、上野駅の中央改札、公園改札、入谷改札へは何も見ないで行けるが、不忍改札だけはいまだに駅の案内板を見ながら行かないと、たどり着けない。私は18才の時、北陸から上野行き寝台列車に乗って上野駅に降り立ったのだが、あの時は、どこをどうやって行っていいのか、さっぱりわからなかった。それが何度も上野駅を利用することで、駅構造がわかるようになり、何とかこなせるようになった。私は現在、「mixi」と「GREE」で「上野駅」コミュニティの管理人を務めているが、不忍改札だけは、駅の案内板を見ていかないと、たどり着けない。

上野駅周辺のレストラン、カフェはゴールデンウィークということもあってどこも満員。外国人観光客の姿も見える。食事を終えて、上野駅から上野公園を歩いて行ったが、公園の中も、大勢の人が歩いている。東京国立博物館では、「栄西と建仁寺」展の他に、「キトラ古墳壁画」展もあり、当初は特別展ふたつとも見学するつもりでいた。ところがチケット売り場に、「キトラ古墳壁画展は、入場まで約40分、さらに入場してから壁画にたどり着くまで約30分、合計約70分かかりまーす」という案内を行っていた。「あ、こりゃだめだ」と思い、この日の見学は「栄西と建仁寺」展だけにした。「栄西と建仁寺」展と「キトラ古墳壁画展の入場チケットは別々になっていて、「栄西と建仁寺」展の当日入場券は1600円。博物館の特別展当日券としては少々高めである。

私は、京都・建仁寺には何度か参詣しており、数年前から建仁寺境内には、2014年が栄西八百年遠忌の年に当たるとの案内が出ていた。今回の「栄西と建仁寺」展も、建仁寺開山・栄西禅師八百年遠忌記念と銘打たれている。東京国立博物館では過去に、

□「法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌特別展『法然と親鸞ゆかりの名宝』」(20111025日 ~124日)

□「興福寺創建1300年記念 『国宝 阿修羅展』(2009331日~67日)

□「開山無相大師650年遠諱記念特別展 『妙心寺』(2009120日~31日)

□「平城遷都1300年記念『国宝 薬師寺展』(2008325日 ~68日)

□「天台宗開宗1200年記念特別展『最澄と天台の国宝』(2006328日(火) ~57日)

□「興福寺創建1300年記念 特別公開『国宝 仏頭』2005921日~1016日)

□「平成大修理記念『唐招提寺展国宝鑑真和上像と盧舎那仏』2005112日 ~36日)

□「亀山法皇700年御忌記念特別展『南禅寺』」 (2003120日~229日)

□「建長寺創建750年記念特別展『鎌倉-禅の源流』 (200363日~713日)

□「日蓮聖人立教開宗750周年記念『大日蓮展』 (2003115日~223日)

等々の仏教関連の特別展が行われてきている。

 

 

□「栄西」の文字に「イヤウサイ」のフリガナが振られていた高峰東晙の著書「興禅護国論和解」

 

今回の「栄西と建仁寺」展には183点もの木像、絵画、古文書、袈裟、陶器等々が出品されていたが、その中で目を引いたのは、展示の最後に出てきた国宝「風神雷神図屏風」。「風神雷神図屏風」は、建仁寺方丈で見学できるが、通常、建仁寺方丈で展示されているのは、高精細デジタル複製、つまりレプリカである。しかし今回、展示されたのは国宝に指定されている『本物』。『本物』が東京にやってきたのは5年ぶりとのことである。

注目の栄西木像は、建仁寺格蔵の木像ではなく、神奈川県鎌倉市の寿福寺格蔵のもの。栄西を描いた肖像画(御影)は、二幅出品されていて、いずれも京都両足院格蔵のもの。両足院とは建仁寺塔頭である。面白いのは絵像も木像も栄西の顔の眉毛から上の頭部が長く描かれていること。描いた人物も時代も異なるのに、栄西の顔の特徴をいずれも描いているというのは、注目点である。栄西の顔の特徴が、建仁寺派に伝承されていたのだろうか。

江戸時代中期の臨済宗僧で建仁寺第335世・両足院13世・高峰東晙の著書「興禅護国論和解」の「栄西」に「イヤウサイ」とのふりがなを付けている所が公開されていた。「栄西」は一般的には「えいさい」と言うが、臨済宗建仁寺派では「ようさい」と呼ぶ。今回の「栄西と建仁寺」展でも「ようさい」と呼んでいる。私が京都建仁寺に見学に行った時、臨済宗建仁寺派では「栄西」を「ようさい」と呼ぶのは「寺伝によれば」との説明であった。「興禅護国論和解」の「イヤウサイ」とのふりがなも、寺伝のひとつということだろうか。

蘭渓道隆などの鎌倉時代の禅僧の木像も目を引いた。日本の古来の絵画・肖像画は写実的に描かれたものは非常に少ないが、木像彫刻は一転してかなり写実的に描かれているものが多い。木像の眼球は、ガラス玉でも入れているのか、少々輝いて見えるところまで写実的である。蘭渓道隆は、宋から日本に渡来した禅僧で、鎌倉建長寺住持にもなっている。

もうひとつ、私はあらためて着目したのだが、平安時代末期から鎌倉時代、日本と宋の間には日宋貿易が行われていた他、日本の僧侶が宋に渡航し、宋      (中国)の僧侶が日本に渡来していて、日宋間の人的交流が盛んに行われていたということ。1259(正元1)年、中国からの渡来僧・蘭渓道隆が建仁寺第11世住持になるが、そのころ、中国大陸は南宋を除くモンゴル、満州、新疆ウイグル・チベット・ネパール・雲南、中央アジア、中東、東ヨーロッパ、朝鮮半島にいたる広大な地域が、すでにモンゴル帝国の支配下になっていた。日宋間を往来していた禅僧は、中国仏教文化を日本にもたらしたが、同時に中国大陸、朝鮮半島の政治・軍事情勢の情報も日本にもたらしていたはずだ。これらの禅僧が仏教の話だけして政治・軍事情勢の話しを全くしないとは、とても考えにくい。少なくともこれら禅僧、栄西、道元らと面識があった北条時頼は、中国大陸、朝鮮半島の政治・軍事情勢を知っていたことは、間違いないと思われるのである。

建仁寺展1


建仁寺展2 




























(特別展「栄西と建仁寺」)