■真宗・浄興寺2(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めている盛岡大学長・加藤章氏論文

 

親鸞の頂骨を格蔵してきた浄興寺が東本願寺、西本願寺、興正寺に親鸞頂骨を分骨してきていることは、単なる浄興寺の寺伝によるものではない。20045月、本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文を寄せている。その中でこう書いている。

(親鸞は)京都から越後国国府(新潟県上越市)に流され、越後にて七年ほど配流の生活を送ったが、流罪赦免ののちも京都に戻らず、上野、武蔵をまわって建保2(1214)常陸国笠間郡稲田郷(茨城県笠間市)に移住し、その拠点は稲田禅坊とよばれた。そこで農民や下層武士を主とする民衆に布教するとともに、自ら信仰を深めつつ『教行信証』を著した。本寺(浄興寺)の成立は、この『教行信証』の成立した元仁元年(1224)、浄土真宗の創始と同時ということになる。親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…

鎌倉幕府は、皇系である善性に寺領として信濃国水内郡太田庄長沼(長野県長野市)に三千貫文を与えたが、弘長三年(1263)、戦火により稲田浄興寺が焼失した際、下総国(茨城県)稲敷山さらに磯部村をへて、この長沼に移った。(文永4年、1267)。長沼の浄興寺はその後、三百年ほどつづき、永禄4(1561)、十三世(浄興寺)住職の周円のとき、川中島合戦の兵火を受けて炎上した。寺伝では、十六世紀末、上杉景勝(一説に謙信)の招きによって春日山城下に寺地を与えられ、堂宇が建立されたとされている。上杉景勝が会津転封の後、入封した堀が福島城を築いたので、十五世善芸のとき、浄興寺も福島城下に移った。その後、松平忠輝が入封し、慶長19(1614)、高田城を築いたため、浄興寺も城下に移ったが、寛文5(1665)の大地震で堂宇は破壊焼失した。十八世琢性は、延宝6(1678)に、再建計画をたて、江戸および周辺十ヶ村において浄興寺寺宝の御開帳を行い、再建資金を集め、翌、延宝7年に現在の本堂が建築された。この本堂は、平成元年、重要文化財に指定された。…」

「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。それに対し、親鸞の没後十年を経た文永9(1272)、浄興寺から48年おくれて本願寺が創建された。したがって、もともと本願寺と浄興寺の間には、本寺末寺の関係はなかったのである。しかし宗祖を同じくする同派であり、とかも宗祖親鸞の頂骨を浄興寺が安置することから、両寺の交流は深く、また真宗教団の発展に協力して貢献する歴史を有している。とくに本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

 

 

「その後、慶長7(1602)、本願寺が東西両派に分裂したことを契機に、浄興寺は十六世教善のとき、門末をあげて東本願寺を支持し、深い関係をもつに至った。東本願寺は、浄興寺をして客分一門として遇し、十六世教善、十七世宣性、十八世琢性の三代にわたって、()本願寺門主の息女を室に迎え、(東本願寺)門主の「猶子」として(東本願寺)門主の連枝と同等の待遇を受けている。また歴代の(浄興寺)住職は、修学をはじめ宗務のためにしばしば京都に赴き、本願寺との交流も深かった。このような近世初頭における本願寺との関係の中で注目すべきは、それまで宗祖の頂骨を独占してきた浄興寺の特権が、万治3(1660)、婚姻関係を理由に本願寺側からの強い要望に応えて、宗祖の頂骨および本願寺三世覚如以降、7人の門主の遺骨を分与したことである。そのことによって、本願寺は寛文10(1670)、東大谷本廟を創立し、名実ともに本山の条件を整えるに至った。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p24)

この論文「浄興寺小史」の中で、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏は、「宗祖の頂骨を独占してきた浄興寺の特権が、万治3(1660)、婚姻関係を理由に本願寺側からの強い要望に応えて、宗祖の頂骨および本願寺三世覚如以降、7人の門主の遺骨を分与したことである」と、浄興寺から東本願寺への親鸞頂骨の分骨をはっきりと史実として書いている。なぜ浄興寺から親鸞頂骨が東本願寺に分骨されたのかについては、「婚姻関係を理由に本願寺側からの強い要望に応えて」と書いている。婚姻関係とは、浄興寺十六世教善、十七世宣性、十八世琢性の三代の住職(浄興寺門主)が、()本願寺門主の息女を室に迎えたことを指していると思われる。浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨については、加藤章氏ははっきりと書いていないが、文中の「本願寺の蓮如の宗門再興をかけて活躍した際や、顕如が大坂石山本願寺を拠点に織田信長と戦った石山合戦前後などは、浄興寺も積極的な援助を行っている」の中には、文禄元年(1592)の浄興寺から西本願寺・顕如門主への親鸞頂骨の分骨を含めているものと思われる。このように盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長・加藤章氏の「浄興寺小史」と題する論文は、浄興寺から東西本願寺への親鸞頂骨の分骨を史実と認めていることが明らかである。東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状は、浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」にも所収・掲載されている。

浄興寺9




















 

(浄興寺・親鸞頂骨拝殿)


東本願寺礼状1















 

(東本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)


西本願寺礼状1















 

(西本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)


興正寺礼状1















 

(興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)


写真集・浄興寺1














































 

(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)