■真宗・浄興寺3(東西本願寺への親鸞頂骨の分骨)

 

□浄土真宗の宗祖・親鸞の頂骨を格蔵すると伝承する浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺2

 

私がはじめて新潟県高田市の浄土真宗浄興寺派本山・浄興寺を訪ねたのは、寒い真冬。高田の地には、こんこんと雪が降り積もっている。JR高田駅の近隣に、仏教寺院が林立する「寺町」があり、浄興寺はその「寺町」の中にある。高田駅前から歩いて行ける距離にあるのだが、行きは駅前で客待ちをしていたタクシーに乗って浄興寺へ。「本山浄興寺」の額が掲げられている山門をくぐると、本堂に向かって参道が伸び、参道の両側には塔頭寺院・子院が建ち並ぶ。境内には、本堂、親鸞御廟、宝物殿、庫裡、聖徳太子堂などの堂宇が建ち並ぶが、積雪のためか、全て雪囲いがしてある。冬になると、高田の地は相当な積雪に見舞われてしまうようです。境内の堂宇をよく見ると「親鸞聖人御真廟」「太子堂」等々の立て看板が立てられている他、浄興寺境内図や浄興寺の歴史を記した案内板も建てられている。寺院の参拝者から見ると、かなり親切な造りになっている。私は浄土真宗の本山寺院をいくつも訪ね歩いていますが、こういった参詣者に対して、わかりやすい案内板や立て看板を整備している寺院をいくつか見かけます。

まずは浄興寺本堂に参拝しようと、雪囲いがしてある本堂へ。本堂入り口階段前のお賽銭箱にお賽銭を入れて合掌。本堂の戸を開けようとしたが、入り口の戸が全てカギがかかっていて閉めきられている。本堂から親鸞御真廟、さらに宝物殿へと渡り廊下で繋がっているが、全て雪囲いがしてあって、戸は閉め切り。私も子どもの頃、真冬になると1メートル級の積雪がある地域で育ったが、昔からの家には、雪囲いがしてある家がよくあった。高度成長時代以降に新築された新しい家には、雪囲いがある家はあまり見られなくなったが、積雪が多い富山県地方に行くと、新築の家でも雪囲いがある家を見かける。北陸では石川県より富山県、富山県よりも新潟県のほうが積雪が多い。富山県でも五箇山などの山間部に行くと、雪囲いをしてある家をよく見かけます。私が浄興寺を訪れた日の積雪は、数十センチくらいでしたが、何せ浄興寺がある新潟県高田市とは、日本でも有数の豪雪地帯で有名な所である。

私は浄興寺の話を聞こうと庫裡を訪ねた。すると門主夫人が応対に出られた。この方、全く物おじせず、しっかりと私のほうを向いて、私の質問にも、ひとつひとつはっきりと明快にお答えくださった。私が「仏教宗学研究会主宰・仏教宗学研究会のブログ主筆」の名刺を見せて、お話を伺うと、門主夫人の話は、浄興寺が上古の昔から、親鸞の頂骨や遺品を格蔵してきた寺院であること、そして浄興寺から東本願寺、西本願寺、興正寺へ、さらに仏光寺、高田専修寺等々まで、親鸞の頂骨を分骨してきていることを語っておられる。ここが浄興寺の大きなポイントでありますね。私はインターネットで東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状が格蔵されていると聞いてきたので、宝物殿の中を拝観させてもらえませんかと尋ねると、普段は宝物殿は閉め切っているが、拝観の申し込みがあった場合は、開館しているとの御返事であった。

 

 

□浄興寺宝物殿に展示されていた東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状

 

浄興寺が格蔵する重宝は多岐にわたっていて、一度に全ての重宝を展示できないので、一年に何度か展示替えを行っているとのこと。私は宝物殿拝観を許可していただき、宝物殿に展示されている重宝を拝観。東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状も展示されていた。ここが浄興寺重宝の最大の見どころである。東本願寺、西本願寺、興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状は、浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」にも載っている。

さて浄興寺が格蔵してきたのは親鸞の頂骨ということだが、それでは首から下の体の骨はどこにあるのか、という話になってしまうのだが、ここは古来からの慣習を見なければならないと思う。

それはどういうことかというと、一般の人の墓地の場合、骨壺に入っているのは、通常は「頂骨」ということになっている。私の実家の祖先の墓所は、北陸地方の某県の共同墓地にあるのだが、そこにある墓所は大半が浄土真宗式の墓所。実家の墓所の骨壺の中に入っているのも「頂骨」ということになっている。しかし実際は、頭の骨も腰の骨も足の骨も混ざっているケースが大半である。

これは火葬・骨拾いの経験がある人なら、わかると思うのだが、火葬が終わって焼けただれた灰骨から骨を拾って骨壺に収める時、どれが頂骨でどれが腰の骨で、どれが足の骨だがわからないくらいに焼けただれている。これは火葬の時の焼き具合にもよると思うのだが、私が立ち会った火葬では、骨を拾う時、だいたいそうなっていた。そしてその灰骨の中から、火葬に立ち会った人たちが、故人の骨を拾って骨壺に収める。だから骨壺に収める骨は、頂骨も腰の骨も背骨もあばら骨も足の骨もみんな入っている。しかし骨壺の入っている骨は、一般的に「頂骨だ」と言うのである。今は火葬にするときは、石油を使って完全に火葬にしてしまうらしいが、鎌倉時代の火葬には、もちろん石油は使われていなかったことだろう。しかし石油を使った火葬でも、「なかなか遺体が焼けない」ということで、火葬が数回やり直されたこともあった。つまり完全に遺体が焼けるまで何度も火葬をするわけである。だから親鸞の場合も、火葬の後、灰骨から骨を拾い集めて骨壺に収めたものを「頂骨」と称していたのではないだろうか。頂骨とは、本来は頭の骨なのだが、ほとんど灰骨の意味で使われている場合が多い。だから浄興寺が格蔵してきた親鸞の「頂骨」とは、実際は親鸞の「灰骨」なのではないかと考えられるのである。

東本願寺礼状1















 

(東本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)


西本願寺礼状1
















 

(西本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)


興正寺礼状1
















 

(興正寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)


浄興寺9




















 

(浄興寺・親鸞頂骨拝殿)