■法華本門寺根源(北山本門寺)7(本門寺塔中坊開基)
国道469号線は、北山本門寺の仁王門前を通っていて、あたかも仁王門が北山本門寺の表玄関のようになっていますが、正確に言うと、かつて北山本門寺には三門や総門があり、そちらが表玄関であったわけです。
現在、三門や総門は失われており、三門跡、総門跡が残っているだけです。
さて仁王門の参道から国道469号線を横断して南側に歩いて行くと、いくつかの塔中坊が並んでいます。
まず仁王門のすぐ横に養仙坊があり、国道469号線を横断して南に行くと、行泉坊、西之坊、そして向かい側に蓮行坊、養運坊、東陽坊という坊が並んで建っています。
養仙坊の開基は、日蓮正宗大石寺寂日坊、富士下条妙蓮寺の開基でもある寂日坊日華。
蓮行坊の開基は、日国。
行泉坊の開基は、日蓮正宗大石寺4世法主で、大石寺浄蓮坊の開基でもある日道。
養運坊の開基は、新六僧筆頭で、日興の滅後に北山本門寺貫首になった日代。しかしその後、日代は、北山本門寺檀那・石川能忠によって北山本門寺から擯出されて、西山本門寺の開祖になっています。
西之坊の開基は、日助。東陽坊の開基は、日恩である。
北山本門寺塔中坊の開基に、日華、日道という、大石寺塔中坊の開基と共通する人名が出てくるのも、何とも面白い。
さて東陽坊からさらに南に下ろうとすると森林になってしまうのですが、この先に北山本門寺の三門跡、総門跡、冠木門跡、土手門跡があり、さらに五重塔跡があります。
かつての北山本門寺の全盛期には、北山本門寺の境内は、今の東陽坊からさらに南側にむかって大きく広がっていたことがわかります。
したがって、北山本門寺の参道は、かつては南側の三門跡、総門跡から行泉坊、西之坊、蓮行坊、養運坊、東陽坊の前を通って、仁王門前につながっていたわけで、全盛期の北山本門寺の境内は、今の大石寺くらいに、そうとう広大な面積があったのではないかと思われます。
これだけ広大な境内だったということは、塔中坊も、もっとたくさんあったのではないかと思われます。
ではなぜ、北山本門寺の三門、総門、冠木門、土手門、塔中坊等々が失われ、境内が狭くなってしまったのか、ということですが、はっきりしたことは判明しません。
おそらくは、まず江戸時代に、北山本門寺住僧の放火による火災に何度も遭遇して伽藍・堂宇を焼失しています。
それから明治維新のときの廃仏毀釈。この廃仏毀釈によって日本全国各地の仏教寺院が大きな打撃を被っています。
まあ、こういったこと等々が影響したのではないかと思われるのですが。
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