■真宗・仏光寺2(法脈・絵系図)

 

□親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して教勢を拡大しようと計って失敗した親鸞の曾孫・覚如

 

現在、浄土真宗の教団で最大宗派は、門徒数が約780万人、寺院・教会・布教所数が10369、教師(僧侶)数が19465人の浄土真宗本願寺派(西本願寺)である。が、室町時代はそうではなく、最大教団は、浄土真宗専修寺派、浄土真宗仏光寺派であった。この浄土真宗の宗史について、浄土真宗の教団側が出している資料の中に、これらをわかりやすく説明した資料がなかなか見つからず、むしろ井沢元彦氏の「逆説の日本史」の記述のほうが一般には、わかりやすいと思われる。そこで浄土真宗の歴史の概略、真宗専修寺派の教義、真宗仏光寺派の教義の概略については、井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から要旨を引用してみたい。

----親鸞の死後、本願寺教団は全く勢いがなく崩壊寸前だった。それが復活したのは蓮如という天才的な布教者が出て、一挙に教勢を挽回したから。蓮如以前の本願寺がいかに衰えていたか。開祖親鸞の死後、親鸞の教えを継ぐ者は、第一に親鸞の子孫だった。最澄にも空海にも法然にも栄西にも道元にも日蓮にも、直系の子孫はいない。しかし公然妻帯し四男三女をもうけた親鸞には、直系の子孫がいる。その親鸞直系の子孫が本願寺を建てた。しかし鎌倉時代から室町時代前期のころ、本願寺に参詣する門徒がほとんどいないほど衰え、逆に本願寺以外の真宗教団が隆盛していた。それが浄土真宗仏光寺派、浄土真宗専修寺派である。

浄土真宗仏光寺派も専修寺派も、いずれも浄土真宗宗祖・親鸞の弟子たちが開祖になっている。親鸞には直系の子孫の他に、何人かの直弟子がいた。とはいっても親鸞は、弟子を弟子とは呼ばずに「御同朋御同行」と呼んでいた。今風に言うと「同志」ということだが、親鸞の高弟たちは、親鸞の子孫である本願寺教団には従属せず、次々と独立して布教していった。

親鸞の死後、本願寺は浄土真宗の中で唯一絶対の総本山だったわけではなく、むしろ全国に多数ある浄土真宗教団のひとつにすぎなかった。本願寺は親鸞直系の子孫であり、開祖親鸞の墓を護っていたが、真宗の教義では、極楽往生を保証してくれる救い主は本尊の阿弥陀如来であって、凡夫の親鸞ではない。普通の人に過ぎない親鸞の「墓参り」には関心がなくなってしまったのである。しかしながら浄土真宗の各教団も、初期のころは、いくつかの教団に分裂はしていたものの、宗祖「親鸞」を統合の象徴としていた。それに飽き足らず、本願寺派の教線拡大を狙う親鸞の曾孫・覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して、教勢を拡大しようと計った。これが本願寺の起こりで、覚如は、本願寺開祖を親鸞とし、覚如を第3世として、本願寺住職で、親鸞の子孫である本願寺教団の代表者・最高指導者を「法主」と呼ばせた。しかしこれが失敗に終わった。

 

 

□親鸞の子孫の「血脈」に勝るとする「法脈」を強調し絵系図を考案して布教した仏光寺派・了源

 

覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族、本願寺教団で独占すれば、浄土真宗の多くの門徒(信者)はついてくるに違いないと踏んでいたのだが、結果は全く逆になり、浄土真宗の多くの門徒は、専修寺派や仏光寺派に走り、本願寺派は門徒に見捨てられてしまうということになった。

なぜこうなったのか。これは親鸞の「祖廟」という絶好の看板を奪われた、浄土真宗の他派では、本願寺に負けない戦略を打ち出したからである。

室町時代の中期、浄土真宗の本家本元であるはずの本願寺は衰退。この時代、浄土真宗と言えば、本願寺派ではなく、仏光寺派のことであり、1300年代後半~1400年代前半にかけて仏光寺派は、同じ浄土真宗・本願寺をはるかにしのぐ巨大な勢力があった。大石寺9世日有が京都天奏の旅で京都に上京したころは、真宗・仏光寺派は、全盛時代の真っ只中だったのである。

仏光寺(ぶっこうじ)とは、京都府京都市下京区にある浄土真宗佛光寺派の本山で山号は、渋谷山(汁谷山)。京都・渋谷(しぶたに)に寺基があった頃、1300年代後半 - 1400年代前半のころは、同じ浄土真宗の本願寺をしのぐ勢力があった。1432(永享4)3月に、日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都天奏の旅に出たころ、まさに仏光寺派は全盛時代だった。

元応2年(1320年)、第7世了源により、仏光寺は教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都・東山に移すべく、山科から今比叡汁谷(しるたに)または渋谷(しぶたに)(現在の京都国立博物館の辺り)に寺基を移した。佛光寺は、了源が山科に建てた草庵を今比叡汁谷に移して寺格化したことをもって開創とする。

佛光寺の寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来する。これにより「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、それを縁に山科より京都渋谷に寺基を移したともいわれる。

寺基の移転にともない佛光寺は、多くの参詣者を迎え隆盛をきわめる。一方の本願寺は、当時は青蓮院の末寺に過ぎず、第8世法主蓮如の時代の寛正6年(1465年)19日に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却されるまで次第に荒廃していく。

浄土真宗の場合、弟子の系統である「法脈」の他に、「親鸞の血脈」というものがある。この場合の血脈とは、親鸞の血統を受け継いでいる子孫という意味で、これは「本願寺だけのもの」ということになる。この「本願寺だけ」の、本願寺独占になっている「親鸞の血脈」に対抗するため、仏光寺の開祖・了源は、親鸞からの弟子の系統である「法脈」を全面的に押し出した。

「本願寺は確かに親鸞聖人の血脈を受け継いでいる。しかし仏光寺は親鸞聖人の『正しい教え』である『法脈』を継いでいる。だから我々仏光寺のほうが本願寺よりも上なのだ」

了源は、親鸞の子孫である「血脈」に勝るとする「法脈」を強調し、門徒(信者)に宣伝するために、絵系図というものまで考案した。つまり代々の法脈継承者を絵に描き、系図に載せたのである。

これにより、仏光寺は、「法脈」に関する一切の権限を握ったのである。-----(井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻要旨)

仏光寺9
















仏光寺6御影堂
















仏光寺2御影堂
















 

(真宗仏光寺派本山・京都仏光寺)