■大谷本廟・西大谷1(御荼毘所・親鸞真骨)

 

□鳥辺山の親鸞「御荼毘所」とは離れた所に建っている真宗本願寺派の親鸞廟所・西大谷

 

真宗本廟・東本願寺を本山とする真宗大谷派の親鸞廟所を大谷祖廟・東大谷と言うのに対して、西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所を大谷本廟・西大谷と言う。東大谷も西大谷もどちらも京都・東山にある。東大谷が東にあり、西大谷が西にあるというわけではない。これは大谷祖廟は、東本願寺(真宗本廟)の親鸞廟であるから東大谷、大谷本廟は西本願寺の親鸞廟であるから西大谷と呼ばれているものと思われる。西大谷は、室町時代のころから共同墓地で有名な鳥辺山にある。この鳥辺山は、大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺がある、あの鳥辺山である。

大谷本廟・西大谷の三門は、京都・東山五条の交差点脇にある。JR京都駅から東山五条までは、徒歩で行けないこともないが、私はここに行くときは、バスかタクシーを利用する。西大谷の境内は、東大谷と比べてかなり広く、親鸞廟所の拝殿もきちんと整備されている。真宗本願寺派の門徒数は約780万人。寺院・教会・布教所数は10369。教師(僧侶)数は19465。これだけ大規模な宗門であるので、それだけ参詣者も多いということだろうか、親鸞廟所も念入りに整備されているのが印象的。西大谷・親鸞廟所の後方には、広大な門徒(信徒)の墓地が広がっている。このあたりは上古の時代から、鳥辺山墓地とよばれた所である。

実は親鸞が火葬・荼毘に付されたのがここ京都・鳥辺山なのである。親鸞は90才で京都鳥辺山の延年寺で火葬され、荼毘に付されたと本願寺の寺伝では、伝承している。親鸞が荼毘に付された所を、真宗本願寺派では「御荼毘所」と呼んでいて、「御荼毘所」は京都・鳥辺山に今も残る。鳥辺山の中にあるのだが、大谷本廟・西大谷と同一所ではなく、離れた飛び地になっているところが面白い。しかもその飛び地に行くには、同じく鳥辺山にある大石寺・要法寺・保田妙本寺三祖日目の墓所がある日蓮本宗(要法寺門流)實報寺の墓地の中を通って行かないと、行けないのである。

 

□明治維新の時に京都市からの廃寺命令でとっくに廃寺になって消滅していた鳥辺山・延年寺

 

現在、鳥辺山ないしは鳥辺山近辺には、鳥辺山墓地が存在するが、それは實報寺墓地、西大谷墓地、ないしはその近辺にある寺院の墓地であって、延年寺ないしは延仁寺という名の寺院は存在しない。鳥辺山の山道をどんどん登っていくと、「延年寺旧跡墓地」という名の墓地があるが、鳥辺山に延年寺という名の寺院は存在しない。「延年寺旧跡墓地」には、別の管理者がいる。そこで

「延年寺旧跡墓地」管理者(鈴木花店)にお話を伺ってみると、延年寺という寺院は、今日、存在していないという。「いつなくなったのですか」と質問すると、「延年寺は明治維新のときに、なくなりました」との回答。「廃仏毀釈でなくなったのですか」と質問すると、「いいえ、そうではありません。京都市のほうから、廃寺命令が出て、なくなりました」との回答でした。

 

 

□覚信尼が親鸞遺骨を改葬して建てた「大谷廟堂」とは別の所に建つ今の大谷本廟・西大谷

 

かつて日蓮本宗(要法寺門流)實報寺住職と話しをしたときに、實報寺住職は「延年寺は大津市に移転した」と言っていた。そこで私は、延年寺が今も現存しているのなら、そこの住職なり関係者に話しを聞いてみようと、大津市でいくら探しても、延年寺も延仁寺も見つからない。そこで再度、鳥辺山墓地を調査したところ、延年寺は明治維新のころになくなった、ということがわかったのである。大谷本廟・西大谷の境内に入っていくと、おそらく真宗本願寺派の門徒の人が多いのだろうが、たくさんの人が参詣に来ている。境内は円通橋を渡って総門をくぐると仏殿と読経所、無量寿堂、第二無量寿堂がある。仏殿とは、内陣に阿弥陀如来像を中心に歴代本願寺宗主を祀る堂宇。大谷本廟・西大谷のいわば本堂である。無量寿堂、第二無量寿堂には読経所待合室、喫茶、食事処があり、たくさんの人でにぎわっている。仏殿の奥に明著堂がある。ここが親鸞墓所である祖壇の前にある拝殿である。親鸞廟所拝殿の前には、焼香の煙がたちこめており、たくさんのロウソクに、灯明がともされている。大谷本廟・西大谷が出している「龍谷山本願寺 大谷本廟」(西大谷)と題するパンフレットによれば、明著堂は1709(宝永6)年の造営となっている。同じくこのパンフレットには、「大谷本廟の歴史」という一文が載っている。それによれば

「浄土真宗を開かれた宗祖親鸞聖人(11731263)は、御年90才でご往生され、現在の『お荼毘所』で火葬に付されたのち、ご遺骨は鳥辺野北辺の『大谷』に納められました。その後10年を経て、(親鸞)聖人の末娘の覚信尼さまが、諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を吉水の北辺にご改葬、お堂を建てて御影像を安置されました。ここを『大谷影堂』また『大谷廟堂』と呼び、本願寺の始まりの地となりました。1603年、第12代准如宗主の時代に、廟堂は五条坂の現在地に移転しました。」(大谷本廟・西大谷が出している「龍谷山本願寺 大谷本廟」(西大谷)と題するパンフレット)

つまり覚信尼が親鸞遺骨を改葬して建てた「大谷廟堂」と今の大谷本廟・西大谷は全く別のもので、今の大谷本廟・西大谷は、1603年に建てられた堂宇である。

本廟9





















本廟10





















本廟2





















本廟4




















 

(大谷本廟総門)

本廟6




















 

(大谷本廟境内図)

本廟8



































 

(大谷本廟案内板)

拝殿1





















拝殿2





















 

(大谷本廟拝殿)

御荼毘所2




















 

(大谷本廟・御荼毘所案内)

御荼毘所3




















 

(御荼毘所ルート案内)

御荼毘所5





















御荼毘所6



































 

(親鸞御荼毘所)