■大谷本廟・西大谷2(親鸞真骨2)

 

□石山戦争等からして浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高い

 

西本願寺を本山とする真宗本願寺派の親鸞廟所が大谷本廟・西大谷であるが、親鸞遺骨の行方を追っていく中で、本願寺の基となった大谷廟堂とその後の大谷本廟成立の歴史は、まことに興味深いものがある。浄土真宗本願寺派・本願寺出版社が出している冊子「本願寺グラフ」には、「本願寺の歴史」と題する次の文が載っている。

「もともと本願寺は、親鸞聖人の廟堂から発展した。親鸞聖人が弘長2(1263)年に90才で往生されると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て、遺骨を納めた。しかし聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟たちは、寂寞の感を深めた。そこで10年後の文永9(1272)年に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて、六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移した。これが大谷廟堂である。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職につき、以後、覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになった」(冊子「本願寺グラフ」p6)

つまり本願寺の基は、親鸞の遺骨を納めた大谷廟堂だということで、その留守職に大谷廟堂を寄進した覚信尼の子孫(つまり親鸞の子孫)が就任することになり、これが今の本願寺門主(宗主)ということになる。これは西本願寺門主・東本願寺門首も親鸞・覚信尼の子孫である。

ところがこれと異なる見解が本山浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」の中に載っている、盛岡大学長・元上越教育大学長・上越市史編集委員長の加藤章氏が「浄興寺小史」と題する論文である。加藤章氏は次のように書いている。

「親鸞は、しばらくこの地で布教し、貞永元年(1232)ごろ、京都に帰るにあたり、弟子の善性にその跡を譲った…」「浄興寺の宗教的権威を支えるものは、まず本寺(浄興寺)が宗祖親鸞の浄土真宗開教の道場であること。さらに最も崇敬される宗祖の頂骨を護持しつづけてきたことがあげられる。」(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」p2223)

浄興寺の寺伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞は90才にて京都で遷化(死去)。京都・東山の鳥辺山墓地で荼毘に付されて葬られた。しかし親鸞の頂骨と遺品は、親鸞二十四弟子の一人、善性に相伝され、善性が護持してきたと伝承する。その善性に随って親鸞の頂骨と遺品は、京都から稲田草庵へ、さらに長野へ、そして高田の浄興寺に至るというわけである。

さてもうひとつ、親鸞に関する興味深い研究・論説がある。それは井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」である。井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻から、井沢元彦氏の親鸞に関する興味深い研究・論説親鸞に関する研究・論説の要旨を引用してみたい。

 

 

----親鸞は室町時代の前半期、全く忘れ去られた思想家だった。明治時代の歴史学者は親鸞の歴史的実在すら疑っていたくらいだった。なぜ親鸞が、忘れ去られた思想家だったのか。親鸞の死後、本願寺教団は全く勢いがなく崩壊寸前だった。それが復活したのは蓮如という天才的な布教者が出て、一挙に教勢を挽回したから。蓮如以前の本願寺がいかに衰えていたか。開祖親鸞の死後、親鸞の教えを継ぐ者は、第一に親鸞の子孫だった。最澄にも空海にも法然にも栄西にも道元にも日蓮にも、直系の子孫はいない。しかし公然妻帯し四男三女をもうけた親鸞には、直系の子孫がいる。その親鸞直系の子孫が本願寺を建てた。しかし鎌倉時代から室町時代前期のころ、本願寺に参詣する門徒がほとんどいないほど衰え、逆に本願寺以外の真宗教団が隆盛していた。それが浄土真宗仏光寺派、浄土真宗専修寺派である。

浄土真宗仏光寺派も専修寺派も、いずれも浄土真宗宗祖・親鸞の弟子たちが開祖になっている。親鸞には直系の子孫の他に、何人かの直弟子がいた。とはいっても親鸞は、弟子を弟子とは呼ばずに「御同朋御同行」と呼んでいた。今風に言うと「同志」ということだが、親鸞の高弟たちは、親鸞の子孫である本願寺教団には従属せず、次々と独立して布教していった。親鸞の死後、本願寺は浄土真宗の中で唯一絶対の総本山だったわけではなく、むしろ全国に多数ある浄土真宗教団のひとつにすぎなかった。本願寺は親鸞直系の子孫であり、開祖親鸞の墓を護っていたが、真宗の教義では、極楽往生を保証してくれる救い主は本尊の阿弥陀如来であって、凡夫の親鸞ではない。普通の人に過ぎない親鸞の「墓参り」には関心がなくなってしまったのである。しかしながら浄土真宗の各教団も、初期のころは、いくつかの教団に分裂はしていたものの、宗祖「親鸞」を統合の象徴としていた。それに飽き足らず、本願寺派の教線拡大を狙う親鸞の曾孫・覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族で独占して、教勢を拡大しようと計った。これが本願寺の起こりで、覚如は、本願寺開祖を親鸞とし、覚如を第3世として、本願寺住職で、親鸞の子孫である本願寺教団の代表者・最高指導者を「法主」と呼ばせた。しかしこれが失敗に終わった。覚如は、親鸞の祖廟を親鸞の子孫一族、本願寺教団で独占すれば、浄土真宗の多くの門徒(信者)はついてくるに違いないと踏んでいたのだが、結果は全く逆になり、浄土真宗の多くの門徒は、専修寺派や仏光寺派に走り、本願寺派は門徒に見捨てられてしまうということになった。----(井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」8巻要旨)

井沢元彦氏の論説は、どちらかというと大谷廟堂に親鸞真骨が格蔵されていたとする説を支持しているように見られる。しかし大谷廟堂ののち、本願寺教団は大谷本願寺、山科本願寺、石山本願寺というふうに転々とし、比叡山宗徒、日蓮宗徒等から焼き討ちに遭い、さらに石山合戦で織田信長軍と戦争をした。最後は和議を結んで石山本願寺からは退去したが、石山明け渡し直後、石山本願寺には火が放たれて全焼している。仮に本願寺教団が大谷廟堂以来の親鸞遺骨を護持してきたとしても、比叡山宗徒、日蓮宗徒等から焼き討ちや石山本願寺戦争等の戦災で焼失・紛失している可能性が高い。そういう意味で、私は真宗・浄興寺から西本願寺への親鸞頂骨の分骨説がまことに説得力が高いものであると考えるのだが、どうだろうか。

本廟10





















本廟4




















 

(大谷本廟総門)

拝殿2





















(大谷本廟拝殿)

西本願寺礼状1
















 

(西本願寺から浄興寺に宛てた分骨の礼状・浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)

写真集・浄興寺1














































 

(浄興寺発刊の写真集「歓喜勇躍山浄興寺」)