■法華本門寺根源(北山本門寺)15(廃仏毀釈を免れた垂迹堂)

 

北山本門寺には、他の日蓮宗や富士門流の本山には見られない堂宇があります。それは何かというと、御影堂の後方に建っている垂迹堂という堂宇です。

垂迹堂というのは略名で、北山本門寺の正式名は、「本化垂迹天照大神宮」といいます。

北山本門寺21垂迹堂1



なんだか、まどろっこしい名前なんですが、つまり神社ということです、これは。北山本門寺の境内に、神社があるわけです。

「なんで、北山本門寺に神社があるのか」ということになりますが、北山本門寺の垂迹堂はいつ創建されたのかというと、鎌倉時代後期の本門寺創建時であるという。

「富士おさんぽ見聞録」

http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-370.html

 

このブログの筆者は。

「縁起によれば、八幡神は延宝4年(1676)2月16日、重須本門寺の垂迹堂から遷座した。垂迹堂とは本化垂迹天照大神宮のことで、鎌倉後期の本門寺創建時に建てられた堂宇。」

と書いており、本門寺創建時説を唱えています。

 

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」に収録されている古文書を見ると、北山本門寺には、創建当初から、御影堂と垂迹堂があったという記述があり、そうであるならば、この垂迹堂は、大石寺・本門寺の開祖・日興が創建したことになります。

垂迹堂を創建したのは日興なのか、あるいは後の本門寺貫首なのか、いまひとつはっきりしない所があり、北山本門寺自身も、公式には垂迹堂の創建については、触れていません。

 

垂迹堂の創建が、日興にしろ、後の本門寺貫首であるにしろ、北山本門寺自身の手によって創建されたこと自体は間違いないところです。ではなぜ垂迹堂という堂宇を建てたのか、ということになりますが、これは日興門流における「神天上法門」によるものと思われます。

「神天上法門」というのは、簡単に言うと、

「天下に謗法(日蓮正宗で言う他宗のこと)が充満していると、諸天善神は愛想を尽かして天に登って行ってしまい、衆生を守護しない。しかし日蓮に帰依する寺院・僧侶・信者には諸天善神が降りてきて守護する」

などという、日興門流の独善性がよく顕れた、まことに手前勝手な思想です。

 

こう言うと「北山本門寺は、今は日蓮宗に入っている邪宗だから」などという日蓮正宗の信者の声が聞こえてきそうです。

しかしながら、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」に収録されている古文書「富士大石寺明細誌」によれば、江戸時代の大石寺にも、「天王堂」という名前の神社、つまの大石寺版の垂迹堂があったのです。

そしてその天王堂に祀られていた本尊というのが、日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」偽作を隠蔽するために、「本門戒壇の大御本尊」偽作と同時に御宝蔵で造立した、あの「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊だったのです。

その後、大石寺の天王堂は廃堂になり、「紫宸殿本尊」を模写彫刻した板本尊は、大石寺の御宝蔵に納められています。

(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」8巻・日蓮正宗大石寺観行坊住職・能勢順道氏(故人)編纂「諸記録」より)

 

 

大石寺の天王堂は廃堂になりましたが、北山本門寺の垂迹堂は、今日まで存続していると言うことです。

ではなぜ、大石寺の天王堂は廃堂になったのに、北山本門寺の垂迹堂は、今日まで存続しているのか。

これは、明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈が大きく影響したことは間違いのないところでしょう。これで大石寺の天王堂は廃堂に追い込まれたと言うことだと思います。これは何も大石寺に限らず、全国各地の寺院・神社が同一箇所にあったものの大半が、寺院・神社を分離させられたか、どちらかが廃止になったか、になっています。

 

では、北山本門寺の垂迹堂は、というと、おそらく「開祖日興の創建」を主張したことによって、廃絶を免れたのではないかと思われます。

「開祖の昔からつづいている」

これは、なかなか説得力のある言葉なのです。

江戸時代の初期、僧侶の女犯禁圧に出た江戸幕府に対して、宗祖・親鸞の時代から僧侶の妻帯をしていた浄土真宗が禁圧を逃れたのも、これ。

日光東照宮・輪王寺が混在している日光山が、当時のまま、今日までつづいているのも、これなのです。

 

いずれにしろ、北山本門寺の垂迹堂が、明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈をくぐりぬけて、今日までつづいているのは、日光東照宮・輪王寺が混在している日光山と同様、特筆すべき事ではないかと思います。