■法華本門寺根源(北山本門寺)17(江戸時代の寺域が六万坪)

 

北山本門寺の三門跡地は、国道469号線の南側の塔中坊がある所から、さらに南側に下り、今は松林になっている所です。

塔中坊の参道をずーっと南側に下っていくと、たどり着くわけですが、私は車に乗って仁王門前から、本門寺周辺の狭い道を走りながら、たどり着きました。

北山本門寺の案内図によると、塔中坊のかなり南側に三門跡があり、さらにそのはるか南側に総門跡があるとなっています。

北山本門寺31三門跡



三門跡から南側にむかって参道跡みたいな道がのこっていまして、ずーっと南側につづいています。このあたりは、うっそうとした松林になっています。

このあたりは、北山本門寺の全盛時代には寺域・境内だったわけですから、全盛時代の寺域はそうとう広かった、ということになります。

日蓮宗新聞社発行の「日蓮宗本山めぐり」という本によると、往時の寺域は六万坪、境内16300坪、朱印五十余石の寺領があり、塔中支院25ヶ坊あったと記しています。

六万坪とは、19.83haですから、京都御所(20ha)とほぼ同じくらいです。

今の北山本門寺の寺域は約二万五千坪ということで、これは8.3haくらいです。

全盛期の半分以下になってしまったということです。なぜ縮小になってしまったかというと、明治維新の廃仏毀釈、太平洋戦争後の農地改革によるものだと、「日蓮宗本山めぐり」という本に書いてあります。

北山本門寺の全盛期の19.83haとは、今の日蓮正宗大石寺の面積70haよりかは狭いですが、とは言っても、今の大石寺の寺域は、半分以上が、昭和3040年代にかけての創価学会の勃興によって、創価学会の寄進で寺域が広がったものである。

元々の大石寺の境内といっても、今の三門から御影堂までであり、今の奉安堂がある所は、墓苑があった所である。

江戸時代の大石寺も北山本門寺も、寺域の広さはそんなに変わらないのではないか。大石寺の寺領は66石。北山本門寺は五十余石ということだから、大石寺のほうが若干広かったのかもしれないが。