■真宗・興正寺1(仏光寺・西本願寺から独立)

 

□もともとは真宗仏光寺と同一で仏光寺から分離→西本願寺→西本願寺から独立した興正寺

 

真宗・興正寺とは、浄土真宗興正派の本山で、場所は浄土真宗本願寺派本山・龍谷山本願寺(西本願寺)に隣接している。だからここには、西本願寺を訪問・参拝したのちに、すぐに訪問・参拝できる。西本願寺の寺域・伽藍があまりにも巨大であるため、興正寺は西本願寺の塔中子院のように見えてしまうのだが、独立した興正派の本山である。正式名は円頓山興正寺という。

浄土真宗興正派とは、真宗教団連合をつくる浄土真宗十派のひとつ。浄土真宗には、十派以外にもさまざまな分派があり、全ての宗派が真宗教団連合に加入しているわけではない。

2013年度版・宗教年鑑で信徒数を調べてみると、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が約780万人、真宗大谷派(本山・真宗本廟・東本願寺)が約323万人、真宗高田派(本山・高田専修寺)が約223000人。真宗仏光寺派は約48000人。真宗木辺派(本山・錦織寺)が約46000人。真宗興正派(本山・興正寺)が約35000人。真宗出雲路派が約11000人。真宗誠照寺派が約13000人。真宗三門徒派が約14000人。真宗山元派が約1600人。親鸞頂骨を格蔵していると伝承する新潟県高田市浄興寺を本山とする真宗・浄興寺派が約17000人である。

門徒(信徒)数で言うと、東西本願寺派、高田派、仏光寺派、木辺派に次ぐ数になっている。

興正寺に関する資料・書籍も極端に少なく、興正寺の縁由・歴史についても、定説はなく、さまざまな説がある。これは室町・戦国時代の戦乱で、古文書の多くが焼失してしまったためではないかと考えられる。そこで興正寺の歴史の説については、PHP新書「京都の寺社505を歩く・上・洛東・洛北・洛中編」(山折哲雄監修・槇野修著)から引用してみたい。

正中元年(1324)に了源が山科に一宇を建立。それを大谷廟堂の覚如が興正寺と名付ける。そののち、山科から汁谷(今の京都・渋谷通り・しぶたに)に移り、寺号を仏光寺としたとする説。

もうひとつは、建暦2(1212)に流罪地の越後から京都に戻った親鸞が山科に一宇を建て、順徳天皇から「興隆正法寺」の寺号を拝受。勅願寺になった。それが略して興正寺になったという説。

文明年間(14691487)に、仏光寺第14世経豪は、当時の仏光寺が天台宗妙法院と近かった関係を嫌い、本願寺8世蓮如に帰依して、同士の僧侶らと仏光寺を抜け、興正寺の旧地である京都・山科に寺院を建立。旧名の興正寺を継承した。蓮如は経豪に蓮教の僧名を授与した。

仏光寺から分離した興正寺は、天文法華の乱で一時、大坂に移るが、天正19(1591)に本願寺の京都移転にあわせて、今の地に移転する。本願寺の東西分立以降は、西本願寺に属していたが、宗論の違いから西本願寺と袂を分かち、明治9(1876)に西本願寺から独立した。

よって現在の興正寺は、もともとは仏光寺であり、仏光寺から分離した後は、西本願寺に属した。明治になって西本願寺から分離・独立したという歴史を辿っている。

 

 

□興正寺が蔵する親鸞遺骨が他寺からの分骨であることを認めている興正寺発行の小冊子

 

興正寺も、他の浄土真宗本山と同じく本堂と御影堂の二堂が並んで建つ。本堂(阿弥陀堂)には、阿弥陀如来像が、御影堂には親鸞像が祀られている。もちろん東西本願寺の本堂、御影堂と比べると規模は小さいが、堂宇の造りも、堂宇の中の造りもまた東西本願寺の本堂、御影堂と実によく似ている。特に御影堂の中の造りが、東西本願寺御影堂にそっくりに造られているのが印象的。仏光寺の御影堂も、東西本願寺御影堂にそっくりに造られていましたね。興正寺御影堂は明治45(1912)の再建。阿弥陀堂は大正4(1915)の再建。いずれも興正寺が西本願寺から独立した後の再建である。本願寺の傘下ではない真宗本山が、なぜ東西本願寺御影堂にそっくりに御影堂を造るのか。部外者の目から見ると、ちょっと理解に苦しむ部分がある。

さて興正寺の寺務所で、興正寺が発行する小冊子や資料をもらったのだが、その中にちょっと注目すべきことが書いてあった。それは「舎利器」の説明文の中に

「親鸞聖人のご遺骨を仏舎利にみたて、火焔宝珠形(かえんほうじゅぎょう)の舎利容器に収めています。江戸時代のはじめ、(親鸞)聖人のご遺骨は興正寺に分骨されたと伝えられます」

とあり、興正寺で蔵している親鸞遺骨が、他寺からの分骨であることを認めていることだ。ただし、どこの寺院から分骨された遺骨なのか、までは記載されていない。私はこれを読んで、新潟県の高田・浄興寺に蔵されている興正寺からの分骨礼状を思い出した。浄興寺で聞いた話しでは、興正寺が蔵している親鸞遺骨は、浄興寺から分骨されたものだ、ということである。ということは、このパンフレットの記載は、正寺が蔵している親鸞遺骨は、浄興寺から分骨されたものであることを実質的に認めている、ということか。

さて興正寺境内の中に、興正会館という名の建物があり、そこにレストランがあり、そこで食事。

料理としては普通の料理だったが、この時は興正寺のみならず、西本願寺等、京都市内をあっちこっち歩いて疲れていた時に、レストランに入って食事をしたので、私にとっては、ありがたいオアシスになった。前出のPHP新書「京都の寺社505を歩く・上・洛東・洛北・洛中編」(山折哲雄監修・槇野修著)によれば、興正会館とは、宿泊施設ということである。

興正寺2




















 

(興正寺)


興正寺1




















 

(興正寺門前)


御影堂1





















 

(興正寺御影堂)


御影堂門2



































 

(興正寺山門)


興正寺小冊子1
















 

(興正寺で蔵している親鸞遺骨が、他寺からの分骨であることを認めている興正寺が発行する小冊子)