■高野山金剛峯寺4(20145月の高野山旅紀行4)

 

□電気もトラックも電話も何もなかった平安時代の高野山伽藍建立はかなりの至難の業だった

 

大門から高野山エリアにむかって0.7キロほど歩いて行くと、左手に金堂、御影堂、不動堂、根本大塔等々が建ち並ぶ一角、いわゆる壇上伽藍がある。高野山金剛峯寺の公式ウエブサイトや小冊子を見ると、壇上伽藍とも壇場伽藍とも大伽藍地区とも書いてある。この壇上伽藍は、奥之院と並んで高野山の二大聖地とよばれる。弘法大師空海が高野山を開創するときに、壇上伽藍の創建にとりかかったが、高野山の厳しい自然にはばまれて、伽藍建設は思うように進まず、弘法大師空海の入定前に落成したのは、御影堂(今の金堂)とその他の小堂だけ。壇上伽藍の中央にそびえ立つ根本大塔は、高野山で最初に着工した建造物だったが、弘法大師空海の入定前に完成せず、弟子の真然の代までかかって、887年ころ、ようやく完成した。弘法大師空海の入定は835(承和2)年だから、入定から約50年後ということになる。

ではなぜ壇上伽藍、根本大塔の建設が、かくも難工事になったのか。別冊宝島「高野山のすべて」によれば、国の援助を得ずして、人びとからの勧募した浄財による私寺建立をめざしたこと。官僧であり、密教の祖師として公務に多忙だった弘法大師空海が、建立の指揮をとりずらかったこと。寺院を建立するには、高野山という所はあまりに山深い場所だったこと、の三点を挙げている。

私が思うに、「寺院を建立するには、高野山という所はあまりに山深い場所だったこと」という点が一番大きかったのではないかと思う。弘法大師空海が生きた時代は、平安時代の初期。そのころの奈良・飛鳥地方の仏教寺院・南都六宗の寺院は、朝廷丸抱えの、いわゆる官立の寺院だった。そして寺院の僧侶は、東大寺、唐招提寺等の朝廷公認の戒壇で授戒した、いわば国家公務員だった。しかも飛鳥・奈良・平安時代の古の時代に、仏教を信仰していたのは、天皇、皇族、貴族、公家といった支配階級、上流階級のみ。一般庶民は、仏教とはほとんど無縁だった。そんな時代に私立の寺院を建立すること自体が、至難の業である。

今でこそ、現代人は南海特急「こうや」号やケーブルカーに乗って高野山に参詣するが、平安時代のころには、南海電車もケーブルカーもない。アスファルト舗装の道路もなければ、バイクも自動車もガソリンもない。電気も電話も携帯電話もファックスもインターネットもなければ、テレビもラジオも新聞もニュース番組もない。:建設会社も設計事務所もなければ、トラックもダンプカーも掘削機もコンクリートもショベルカーもない。しかも文字が読める人はほとんど皆無に近い。そんな時代に、山深い高野山に、仏教伽藍を建設することは、あまりにも至難の業であったはずだ。こうして造立された根本大塔も、何度か火災で焼失しており、現在の根本大塔は、1937(昭和12)年の再建である。高さは48m、四面はそれぞれ30m。大塔の塔内には、胎蔵界・大日如来を本尊として、金剛界の四仏(東方阿閦如来、南方宝生如来、西方阿弥陀如来、北方不空成就如来)がとりかこみ、堂内そのものが立体曼荼羅になっている。根本大塔内の立体曼荼羅は、周囲をぐねりと歩いて見学できるが、その巨大な迫力に圧倒されてしまう。

 

 

□大日如来は根本大塔に祀られるが金堂が高野山一山の総本堂になっている高野山金剛峯寺

 

金堂は、高野山開創当初は講堂とよばれ、平安時代から高野山一山の総本堂だった。高野山の年中行事の大半が、ここで勤修される。本尊・薬師如来と胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅を修法する三壇(中央と左右の壇)をもつ密教の大堂である。ここは、弘法大師空海の私願の堂として造営が進められ、完成後は嵯峨天皇御願の堂とされた。金堂も過去に火災で焼失をくりかえしてきており、1926(昭和1)年の火災焼失のときには、高野山開創当初から格蔵されていた秘仏本尊7体も焼失している。現在の金堂は1932(昭和7)年再建、1934(昭和9)年落慶。本尊は薬師如来とされ、他の6体の仏像が高村光雲仏師によって再刻された。本尊は、絶対秘仏で一度も公開されたことがない。ただし2015年の高野山1200年の大法会期間中、金堂本尊が特別開帳される予定。

それにしても、焼失してしまった絶対秘仏の仏像を、仏師が再刻したというのは、どういうことなのだろうか。絶対秘仏の仏像本尊のレプリカが残っていたということか。あるいは絵像が存在しているのだろうか。それとも仏師が想像力で、仏像を彫刻したということか。金堂には、堂内に入って参拝ができるのだが、参拝は金堂正面からではなく、横の入り口から入る。ところが須弥壇のお賽銭箱、焼香台の先には、緞帳が下りていて、中は見えないようになっている。そこで、わずかなすき間から、中をのぞいて見ると、須弥壇の扉が閉まっているのが見えた。金堂は、高野山一山の総本堂ということだが、本尊は薬師如来。しかし真言宗としての本尊は、大日如来。その大日如来は金堂ではなく、根本大塔に祀られている。こういう所が、部外者の私には実にわかりにくい。

御影堂(みえどう)に祀られているのが弘法大師空海の御影。ここも普段は扉が閉められていて、旧暦321日の正御影供の前日、御逮夜の時に年1度だけ開扉され内拝ができる。

東塔の本尊は不動明王と降三世明王、西塔の本尊は大日如来、愛染堂の本尊は愛染明王、不動堂の本尊は不動明王、大会堂の本尊は阿弥陀如来、孔雀堂の本尊は、祈雨の本尊・孔雀明王と、堂宇によって祀られている本尊が異なる。各地の真言宗寺院に行っても、成田山新勝寺は大日如来を祀るものの、大堂は不動明王が本尊というふうになっている。これが部外者の私にとって、実にわかりにくい。真言宗の中心本尊は大日如来だが、真言宗では、明王は大日如来の化身と考えられているとのこと。「歴史読本」編集部編「日本の古寺大巡礼」の「高野山真言宗 金剛峯寺」の項目によれば、

「真言宗寺院の本尊は、ばらばらで統一性がないように見られるが、真言宗寺院に祀られている金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅の両部の曼荼羅が示しているように、統一と連携を持っており、この両部の曼荼羅そのものが本尊ということができる。両部の曼荼羅中央の大日如来が総本尊ということになる」(「歴史読本」編集部編「日本の古寺大巡礼」p192)

となっている。

金堂1

















金堂2















































金堂3















































金堂4















 

(高野山壇上伽藍・金堂)


根本大塔1














































 

(高野山壇上伽藍・根本大塔)


高野山5
















(高野山壇上伽藍・入り口)


高野山6














































 

(高野山開創1200年記念大法会・立て札)