■富士山久遠寺(小泉久遠寺)2(静岡県中部宗務所の見解)

 

小泉久遠寺の歴史については、いつ会えるかわからない僧侶の話に期待するよりも、日蓮宗の見解を聞いた方が手っ取り早い気がします。

小泉久遠寺が所属する日蓮宗・静岡県中部宗務所のホームページに、小泉久遠寺の歴史の概略が載っていますので、そちらを引用します。これを見たほうが早いです。

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

「開創

後醍醐天皇の御代、建武元年(1344)正月、日蓮聖人の法孫・宰相阿闍梨日郷上人によって日興上人の遺志を鍵ぎ本門戒壇一連の道場がこの地に開かれた。当所は富士の裾野でも稍々小高い地域に当つていて、日蓮聖人在世中より日興上人はこの土地を「小泉村は仏法有縁の地」と言われ嘱望し、弘長年間より開教に努められ小泉法華講ができていた。

開山 日郷上人

 永仁元年(1293)八月十五日、越後の国 土岐源氏の嫡流・太田持氏の五男として生まれた。延慶三牛(1310)十八歳のとき日目上人の門に入った。その後は大石寺の日目、本門寺の日興両上人の間を常に往復して勉学に励まれ、得度二年目の正和元年(1312)僅か二十歳の時興師の命により北山大久保に本妙寺を創建した。「久遠寺創立緯起」にも「日郷上人、最初建立の寺なり」と明記されており如何に天稟の資質を具えておられたかがわかる。後に、建武二年(1335)七月、二十七歳の時安房・上総に弘教せられ保田吉浜の豪族・笹生左衛門左尉を教化して法華堂を創立、妙本寺として発展する。尚、保田の妙本寺と小泉の久遠寺は、両山一寺の法脈として歴代の上人がその双方を監した。」

小泉久遠寺13客殿

 

「小泉法華講」の名前は、日蓮正宗大石寺59世法主・堀日亨が編纂した「富士宗学要集」にも出てきます。有名な所では、大石寺6世法主・日時が書写した曼荼羅本尊の中に「小泉法華講」の名前が出てきます。

日時の代と言えば、大石寺と日郷門流の七十年紛争が終息した時の法主で、小泉法華講に大石寺法主が漫荼羅本尊を書写して授与したとなると、何やらいぶかしげに思ってしまいがちです。

しかしよく検証してみると、この時代では当たり前のことだと言うことがわかるわけです。

 

日本全国の庶民が、特定の仏教寺院の信者として固定化されたのは、江戸時代初期の「宗門改」によって、完成したものです。

それ以前は、どうだったかというと、僧侶は、所属する宗派、門流、寺院は決まっていたでしょうが、信者は、というと、実に曖昧で、浄土宗、浄土真宗、禅宗、律宗、日蓮宗という区分けはあったでしょうけども、日蓮宗の中では、信者は、小泉久遠寺にも行けば、北山本門寺にも行くし、大石寺にも行く。はたまた身延山久遠寺にも行く、というふうだった。

 

つまり鎌倉・室町・戦国時代の仏教界は、今のように信者名簿や寺檀制度が整備されていたわけではなく、僧侶や信者で「二重信仰」「三重信仰」していた人は、それこそたくさんいた。

日蓮宗や富士門流内においては、京都・日尊門流、大石寺門流、西山本門寺、北山本門寺、保田妙本寺、小泉久遠寺等は、相互に交流があったわけだから、この富士門流の中で、例えば大石寺と日尊門流、北山本門寺と日尊門流、あるいは北山本門寺、小泉久遠寺、日尊門流といった風に「二重信仰」「三重信仰」の「かけもち信仰」をしていた僧侶・信者は、ごく当たり前のように存在していた。

寺院と信者の関係が完全に固定化されたのは、江戸時代の寺請制度により、本山―寺院―信者の檀家制度が整備されて以降のことです。

この辺の所は、「アンチ日蓮正宗」の「「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART1ですでに書いています。

 

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART1(検証180)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66689819&comm_id=406970