■富士山久遠寺(小泉久遠寺)7(江戸時代の火災の後に植えられた楠木)

 

「日蓮宗・静岡県中部宗務所」

http://www.myouhou.com/index.html

「本山 久遠寺」

http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-71.html

 

さて「日蓮宗・静岡県中部宗務所」公式ウェブでは、小泉久遠寺の歴史について、次のような見解を載せています。

 

「沿革

天文十八年(1549)十四世・日我上人の時に今川氏真より朱印下附、以来将軍が替わるごとに必ず御朱印が下されている。元和八年(1622)に御影堂が建立される。寛政元年(1789)十一代将軍のとき、松平紀伊守を通じて国土安穏の祈祷を仰せつけられ、三月二日より十日までの間壽量品三百巻を読誦奉行している。記録によれば毎年正月六日、登城総礼の席に列し、且つ将軍の葬祭等には納経拝礼の儀についた。宝歴十一年、宝永十年、安永八年、天明六年、嘉永六年などの例がある。

 

回禄の厄

 当山は頻々と火炎に遭っているようで、他寺院にくらベでその回数が些か多い。天文六年に兵火で全焼、二十一世・日有師のとき木堂・天王堂が焼失し、次の日重師の代に塔中が全焼している。天明五年には寺領の民家が多く焼けているが、天保六年、四十六世・日諦師の時本堂・書院・塔中が全焼、明治元年四月、四十九世・日英師の代には客殿・書院・大庫裡・長屋門・玄間など五棟が焼失、大庫裡は同年六月直ちに再建したが、客殿は昭和二十七年に完成した。八十五年目のことである。尚、明胎十三年十一月九日、五十一世・日任師の代、小学校開校祝いの花火の災禍で本堂が焼け落ち、十七年に次代日霊師が上野・東光寺の本堂を譲り受けて仮本堂としたのが、現在も猶残っている。(山門の正面)」

 

 

これは、小泉久遠寺の歴史についての、日蓮宗の正式見解ということになります。

ここで注目すべき事は、火災の多さです。

近代以前においては、消防組織も消防技術も今ほど整っていなかったため、火災が実に多かったことは、少しでも歴史を研究すると出てくることです。

特に、史料においては、江戸時代の火災の多さがよく出てきます。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたように、江戸時代の政治の中心・江戸の街も火災が多かったことは知られていますし、富士地方でも、何度も火災に見舞われたのは小泉久遠寺だけではなく、日蓮正宗大石寺も、北山本門寺も同じです。

 

 

この火災に関連付けて言いたいのは、実は小泉久遠寺の境内にある楠のことです。

小泉久遠寺には、富士宮市保存樹林に指定されている楠があります。

小泉久遠寺8楠


ただし私が、小泉久遠寺に行ったとき、どれが楠なのか、わからなかったくらいなのですが、とにかく富士宮市が立てた看板に、保存樹林として楠が書いてありますので、小泉久遠寺に楠があるという前提で書きます。

「小泉久遠寺に富士宮市保存樹林に指定されている楠がある」などと書くと、日蓮正宗の信者が小躍りして喜びそうだが、そう簡単に事は運ばない。

つまり判明しているだけでも、戦国時代から江戸時代にかけて小泉久遠寺は、何度も火災が起こっているわけである。本尊や古文書といった重宝類は、宝蔵の中に格蔵されているから無傷だっただろうが、外の木々はそうはいかない。

当然のことながら、木々は焼亡しますね。

 

だから、今の小泉久遠寺境内にある楠は、どう考えても戦国時代から江戸時代にかけて何度もあった火災の後に植えられた楠であることが明白です。

ここのところは、「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART1の「検証26・昔も今も身延山に自生の楠木はない21・小泉久遠寺・岡宮光長寺の楠木は江戸・明治の大火以降に植樹されたことが明白」に詳しく書きました。

 

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」

PART1(検証185)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66503912&comm_id=406970

 

「大石寺の『戒壇大本尊』は後世の偽作だ」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_161867.html

「戒壇大本尊は後世の偽作だ(26)~小泉久遠寺・岡宮光長寺の楠木は江戸・明治の大火以降に植樹されたことが明白」

http://anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/3665093.html