■長野善光寺10(2015年・御開帳3)
□私があまり好きではない「十割そば」(十割そば粉でできたそば)の店が並んでいた善光寺の参道
「御開帳」の日の夜は、長野市の繁華街・権堂のスナックに入る。私が宿泊したホテルの入り口カウンターに、「長野ナイトマップ」という名の小冊子があり、長野駅前から繁華街・権堂のスナック、ラウンジ、パブ、バー、居酒屋等々が載っていて、どういう店なのか、だいたいの予算はどれくらいなのか、等が一目でわかるようになっている。スナックに入っていくと、「ホテルに泊まっているんですか」「御開帳ですか」と声をかけられる。宿泊客であることが、一目でわかるらしい。
「一見さん(いちげんさん)は、だいたいホテルに泊まっている人なんですよ」…とスナックのママは言う。一見さん(いちげんさん)は、あるお店に何らの面識なく、初めて訪れた人のことである。
長野駅前、権堂界隈のスナックは、東京都内のスナックに比べて、安価で良心的、かつ利用しやすい店が多い。もっとも、高価なコニャックとか、スコッチとかをボトルキープすれば別だが、ビールを飲んで、つまみを食べて、カラオケをやって、5000円以内でおさまる店が多い。
その権堂の某スナックに入ったときのこと。そのスナックの客の中に、なかなか遊び上手な中年男性がいた。その男性、全国各地を旅して遊んだらしく、全国各地の特産品やら名物料理やら美味しい郷土料理やらホテルやらに、やたらと詳しい。私も全国各地を旅して歩き、いろいろな料理を食べたり、いろいろな所に宿泊したので、その男性と、遊び談義に話しの花が咲いた。そしてそ「遊び談義」が、そばの話しに。長野といえば「信州そば」「戸隠そば」が有名。戸隠(とがくし)そばとは、一般には、長野県長野市戸隠(旧戸隠村)の蕎麦をさす。岩手県のわんこそば、島根県の出雲そばと共に、日本三大そばの一つとされる。善光寺門前付近には、「十割そば」の店がたくさんある。十割そばとは、そば粉だけで打つ蕎麦で「つなぎ」を使っていない蕎麦のこと。そばを打つときは、「つなぎ」を入れるが、つなぎが無くて、そば粉だけが十割だというそばを強調する意味で「十割そば」という。つなぎとは小麦粉のことで、小麦粉に含まれているグルテンがつなぎの役目をする。基本的に蕎麦は十割では「つながらない」。そばには、本来つながるための成分が含まれていない。粉どうしをつながらせるためには、グルテンなど粘着力がある、「つなぎ」成分が必要。そこで、蕎麦にはつなぎ(小麦粉)を入れるのが主流になっている。つなぎ0なら蕎麦が十割なので、十割そば。つなぎ2割なら二八そば、つなぎ1割なら九割そば、という。おおまかな割合の目安になる。ところが、私は「十割そば」が、あまり口にあわない。小麦粉が混ざった「二八そば」のほうが口に合う。そうすると、遊び上手の男性や、スナックのママさんから「長野駅ビルMIDORI」に入っている、そば店は美味しいですよ、との推薦を受けた。翌日、ご推薦のそば店に入ってみたが、確かにこの店のそばは、小麦粉が混ざった「二八そば」系であった。
□少なくとも武田信玄・豊臣秀吉の時代に「実在」が衆目に確認されていた絶対秘仏・善光寺如来
さて、遊び上手の男性との話は、善光寺如来の話しに。男性云く「なぜ善光寺如来は、絶対秘仏なのか。絶対秘仏の善光寺如来は、本当に善光寺本堂の瑠璃壇に秘蔵されているのか。いくら絶対秘仏とはいっても、本当に実在しているのなら、何十年に一度か、何百年に一度かぐらいは、公開すべきなのではないか。絶対秘仏にして公開しないのは、本当は、善光寺如来は実在していないのではないか。善光寺貫主もぜったい秘仏の善光寺如来を見たことがないなんて、有り得ないと思う」…こんな主旨だった。千年以上も「絶対秘仏」と言い続けているかぎり、こういう疑問の声が上がって、普通なのではなかろうか。「絶対秘仏の善光寺如来が本当は実在していないのではないか」と言われても確認のしようがないし、何の証拠もない話しになってしまう。そもそも善光寺如来が千年以上も絶対秘仏になっているからと言って、それが実在していない証拠にはならない。私は、「千年以上も絶対秘仏」イコール「実在していない」とは限らないと思う。
例えば、歴史上においても、戦国時代に甲斐国の戦国大名・武田信玄が軍事力にものを言わせて、善光寺如来を甲斐・善光寺に移したという史実がある。あるいは、文禄4年(1595年)に完成・落慶した豊臣秀吉の京都・方広寺大仏殿の大仏が、完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき豊臣秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れている。豊臣秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した方広寺大仏に代わり、当時、甲斐善光寺にあった絶対秘仏の善光寺如来(阿弥陀三尊)を方広寺に遷座して本尊に迎えることを計画。慶長2年(1597)7月18日に善光寺如来が京に到着し、方広寺大仏殿に遷座された(義演准后日記)。これ以後、方広寺大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり、善光寺如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。豊臣秀吉は翌慶長3年(1598)に病に臥し、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は再び信濃・善光寺へ戻されたが、豊臣秀吉は翌8月18日に没した。こんな史実もある。ということは、絶対秘仏の善光寺如来は、少なくとも豊臣秀吉の時代には、実在が確認されていたということになる。ではなぜ、善光寺如来は絶対秘仏なのか。何か公開できない特別な理由があるのではないか。一般的には、「絶対秘仏の善光寺如来は善光寺貫主も拝観したことがない」とも言われてはいるが、それは有り得ないのではないか。それは、火災や地震等による災害などの「不測の事態」の時は、絶対秘仏の善光寺如来を救出しなければならないからだ。だから「貫主も見たことがない」ということは、有り得ないのではなかろうか。ではなぜ、公開できないのか。たとえば、絶対秘仏の善光寺如来は、どこか一部が破損しているのではないか。あるいは、絶対秘仏は、前立本尊のような金箔貼・精細な彫刻ではなく、もっとシンプルな彫刻になつている、とも考えられる。つまり、前立本尊のほうが立派にできていて、御開帳するのであれば、絶対秘仏よりも、前立本尊のほうが多くの人が参拝する、というわけである。これは、比叡山延暦寺・根本中堂の薬師如来がそうである。比叡山延暦寺の僧侶の話によれば、常に根本中堂で公開されている薬師如来の前立本尊よりも、絶対秘仏の薬師如来像は、かなりシンプルな彫刻になっているという。
(大勧進寺報「法味」2015年1月1日号に載っている善光寺・前立本尊の写真)
(大勧進寺報「法味」2015年1月1日号)
□天皇陛下の善光寺行幸・本堂を御内覧された時、絶対秘仏の善光寺如来は御開帳されるか
では、善光寺如来は、この先、将来にわたって、絶対秘仏でありつづけるのか。私はそんなことはないと思う。絶対秘仏・善光寺如来の「御開帳」の可能性があるケースとは何か。それは、天皇陛下の行幸・御内覧である。2007年11月13日、天皇皇后両陛下が比叡山延暦寺に行幸啓された。この時、歴史上はじめて両陛下が、根本中堂を御内覧されたが、比叡山延暦寺では、絶対秘仏の本尊・薬師瑠璃光如来像を「開扉」したのである。したがって、天皇皇后両陛下が善光寺に行幸啓され本堂を御内覧された時、絶対秘仏の善光寺如来が「御開帳」される可能性が高い。
(天皇皇后両陛下の比叡山行幸啓を報じる天台ジャーナル)
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