□太平洋戦争末期に日本の政府中枢機能移転のために松代地区に建設された松代大本営跡

 

2015年の長野善光寺・前立本尊御開帳に参詣した後、日本の戦争遺跡のひとつである長野市松代地区にある松代大本営跡(松代象山地下壕)を訪問した。松代象山地下壕とは、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現長野市松代地区)などの山中に掘られた松代大本営跡の地下坑道跡のひとつ。地下坑道は、象山、舞鶴山、皆神山の3箇所あり、このうちの象山地下壕が一般公開されている。

早朝、タクシーで長野バスターミナルへ。ターミナルの窓口でチケットを購入。バスに乗って松代に行く。実は、201511日の善光寺初詣の後に松代に行くつもりでいた。かつて松代には長野電鉄河東線が通っていて、松代駅があった。しかし河東線は2002年に廃止になっていたにもかかわらず、その時に私が持っていたハンドブックの地図には、まだ河東線・松代駅が存続しているように載っていた。それで間違えて長野電鉄の電車の乗ってしまい、結局、松代にはたどり着けなかった。そこで今回は、事前に入念にいろいろ下調べを行い、計画を立てた。バスに延々とゆられて乗り続け、旧松代駅前バス停で下車。駅前で着け待ちをしていたタクシーに乗車して松代象山地下壕へ。地下壕とはいえ、つまり延々とつづくトンネルである。私が地下坑道入り口前に到着したとき、すでに多くの観光客・見学客が来ていた。松代象山地下壕は、延々とつづくトンネルであるが、そのトンネルは行き止まりになる。つまり、入り口から入っていって、トンネルの行き止まりにたどり着き、そこで折り返して、出入り口に戻る。トンネルは実に長く、トンネルの中にほとんど人がいない。トンネルの中に入ってみると、なかなか不気味なトンネルである。トンネルそのものは、佐渡金山や土肥金山の坑道とよく似ている。ただし佐渡金山の坑道も私は入って行ったとき、他の見学客としょっちゅう遭遇したが、松代象山地下壕の坑道の中では、たまに他の見学客と遭遇しただけ。あれだけたくさんの観光客がトンネルの中に入っていったのに、あの観光客はどこに言ってしまったのか、と思ってしまうくらい。松代象山地下壕の坑道は、途中からトンネルが大きくなる。ただし、トンネルの中にあった人が住む小屋などは、解体されたまま復元されていない。こういったところは佐渡金山の坑道とは違っている。トンネル入り口前にある掲示板には、地下壕の坑道建設に駆り出された、当時の朝鮮人労働者の徴用についての記述がある。

松代象山地下壕の資料館が、坑道入り口の近くにあり、中に入って見学。管理者の方から、話を聞く。約6000人が地下壕建設にたずさわり、その中の約3000人が朝鮮人の徴用だったという。

そしてそれらの人の中には、いわゆる「慰安婦」もいたとの展示があった。朝鮮人の徴用(強制)を認めるパネルの証拠があるのが印象的。さて松代象山地下壕の建設費はどれだけかかったのか。当時のカネで建設費は1億円とも2億円とも言われたとのこと。ということは、はっきりとした金額は、わからないということなのだろう。当時の2億円は、今の約2000億円ぐらいに相当するという。

それだけ膨大なカネをつぎ込んで、建設されたということである。

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(松代大本営跡・松代象山地下壕)

 

 

□太平洋戦争でどれだけ犠牲者が出ようが眼中になった旧日本軍部の負の遺産・松代大本営跡

 

ただ松代象山地下壕の坑道の中が、ほとんど復元されておらず、ほんの一部だけに、説明のパネル板だけが設置されている状態になっているのは、残念なことである。

さてこの松代象山地下壕・松代大本営は、どういう目的で建設されたのか。これを検証するほうが大事ではないかと思う。その目的とは、太平洋戦争の激化による東京大空襲の被害が甚大になり、なおかつ当時の日本の軍部は、敗色濃厚となる中でも、「本土決戦」を視野に入れていた。だから東京から松代に日本政府中枢を移転させようとしていた。ところが「本土決戦」の前に、昭和天皇がポツダム宣言受諾・無条件降伏を決断したため、ついに松代大本営・松代象山地下壕は実際に使われる日が来なかったのである。もし仮に、昭和天皇の「御聖断」がなく、日本が本土決戦に突入していたら、それこそ数百万人、数千万人規模の日本人の犠牲者が出ていたのではないか、とはよく言われるところである。当時の日本軍部首脳は、日本人がどれだけ犠牲になろうが、中国、朝鮮、アジア、アメリカの人たちが、どれだけ犠牲になろうが、全く眼中になかった。どれだけ戦況が敗色濃厚になろうが、東京、横浜、名古屋、大阪をはじめとする日本の都市が米軍の爆撃で焦土と化そうが、そういうことは、全く頭の中になかった。まるで戦国時代の武家のような、「討ち死」することしか考えていなかった。つまり当時の日本の実権を握っていた東条英機首相をはじめとする軍部政府首脳は、20世紀の政治家としては、全く失格な人たちだった。そういう当時の日本の軍部政府の象徴が、いわゆる松代大本営跡、松代象山地下壕と言えるのではないだろうか。とすれば、この松代大本営跡は、原爆ドームやアウシュビッツ強制収容所跡のような、第2次世界大戦の「負の遺産」と言えるのではなかろうか。あるいは国の重要文化財に指定されても、おかしくないと思う。管理者の方の話しでは、長野県も長野市も、松代大本営跡を国の重要文化財に推挙する気は全くないらしいのだが…。

帰りは、旧松代駅前から長電バスに乗って須坂へ。須坂から長野電鉄の特急列車に乗って長野駅へ。この長野電鉄の特急電車は、何と小田急の特急ロマンスカーで使われていた電車だった。まさか長野に来て、特急ロマンスカーの電車に乗ろうとは思っていなかった。よく見てみると、長野電鉄・須坂駅の車庫には、関東の「成田エクスプレス」で使われていた電車が停まっていた。長野電鉄という会社は、関東の鉄道を走っていた電車のリサイクルをしているようである。

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(松代大本営跡・松代象山地下壕)


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(長野電鉄の特急・ロマンスカーのリサイクル車両)