■鎌倉大仏高徳院1(鎌倉大仏の機縁)

 

□鎌倉大仏の説明板によると僧・浄光が勧進をして造営したと書いてあるがこの説は疑わしい

 

2011128日に仏教宗学研究会で行った「鎌倉参拝会」で、ここに参拝しています。

鎌倉大仏とは、浄土宗の寺院で、大異山高徳院清浄泉寺という。本尊は「鎌倉大仏」の名で有名な阿弥陀如来像で、国宝に指定されている。2004227日、鎌倉大仏殿跡として国の史跡に指定されている。鎌倉大仏は、学術的には開山・開基が不明。

大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてから。

『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている。

(フリー百科事典・Wikipediaより)

私は、木造大仏を土台にして今の金銅大仏を鋳造したような気がするのだが。

鎌倉大仏の説明板によると、僧・浄光が勧進(資金集め)をして造営したと書いてある。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して造ったものではないとしている。

『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である。

(フリー百科事典・Wikipediaより)

一僧侶の勧進で、現在の銅造大仏ができたとするのは、かなり無理がある。何らかの形で、鎌倉幕府が関与しているのではないかと言われている。

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(鎌倉大仏)

 

 

 

 

 

1498年の大地震で堂宇が損壊して露坐となっていた鎌倉大仏を再興した増上寺36世祐天

 

今の高徳院には大仏殿はないが、かつて鎌倉大仏は、大仏殿の中に安置されていたことが、発掘調査によって確認されている。大仏殿は、1334(建武1)年と1369(応安2)年に倒壊。さらに1498(明応7)年の明応地震でも倒壊している。

さて日蓮の十一通御書の中に、鎌倉大仏に宛てたものがあるが、その当時は、大仏殿の中に今の金銅八丈の大仏があった時期ということになる。鎌倉大仏は、開山以来、何度も宗派を転派している。初期は真言宗で、忍性などの密教系僧侶が住職であったが、後に臨済宗建長寺派に転宗したが、江戸時代の正徳年間に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。

忍性が鎌倉大仏の住職になったことがあるということだが、日蓮十一通御書の「大仏殿別当への御状」を見ると、当時の大仏殿別当は忍性とは別人と思われる。

祐天(1637-1718)とは、浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師。明応7(1498)の大地震によって堂宇が損壊して以来露坐となり荒廃が進んでいた鎌倉大仏を、浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得て、養国とともに復興を図る。そして鎌倉大仏の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興し、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺 (鎌倉市)の「奥之院」に位置づけた。東京・中目黒の祐天寺は、祐天を開山とし、本尊に祐天像と阿弥陀如来像を祀る寺院である。

 

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