■京都・天龍寺1(君子南面になっていない天龍寺)

 

1345年に後醍醐天皇の菩提を弔う為に足利尊氏が建立供養した臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺

 

2012512日、仏教宗学研究会が行った「京都寺院・参拝会」の一環として、天龍寺「参拝会」を行いました。天龍寺とは、臨済宗天龍寺派大本山で、京都五山の第一位。室町幕府初代将軍・足利尊氏が、後醍醐天皇の菩提のために建立した寺院として有名である。

天龍寺は、正式には霊亀山天龍資聖禅寺という。開基は足利尊氏。開山は夢窓疎石である。古都・京都の文化財として、世界遺産に登録されている。

場所は、嵐電の終着駅・嵐山駅のすぐ前である。嵐山駅のすぐ前に大本山天龍寺の大石塔があり、さらにすぐの所に、巨大な勅使門がある。

ここ天龍寺も、伽藍の配置が勅使門、三門、法堂、方丈と一直線上になっていますが、勅使門は天皇の勅使のみが通ることが許されていないので、普段は固く閉じられている。勅使門の両側に参道が造られていて、一般の参詣人はここから境内の中に入っていく。方丈、庭園、多宝殿等々の堂宇が公開されていて、拝観料を支払えば、誰でも見学が出来る。方丈、庭園等は、きれいすぎるくらいに手入れ、整備が行き届いている。人工的な景観美は、見事なくらいである。

多宝殿には、後醍醐天皇が祀られている。元々、天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提の為に建立した寺院。大覚寺統の離宮だった亀山殿を寺院に改めたのが天龍寺。

足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのが1338年。後醍醐天皇が吉野で崩御したのが1339年。足利尊氏に、後醍醐天皇の菩提を弔う寺院建立を勧めたのが夢窓疎石であった。そしてこの寺院の建設資金調達のために、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことでも有名である。天龍寺落慶供養は、後醍醐天皇七回忌の1345年に営まれた。

天龍寺の寺域は約950m2に及ぶ広大さで、かつては子院150ヶ寺があったという。しかしその後、1358年、1367年、1373年、1380年、1447年、1467年と火災にあっている。1467年の応仁の乱によって焼失し、再建が成ったあとは安泰だったが、1815年に火災で焼失。1864年には禁門の変によって焼失。現在の伽藍の大部分は、明治以降の再建である。2500点余りにものぼる天龍寺文書といわれる古文書を所蔵しているが、度々の火災で原本を失ったものが多く、大多数は案文や副本として残されている。

天龍寺は、境内東端に勅使門、中門があり、参道が西に向かって伸びている。これは仏教寺院の多くが、「君子南面」と言われるように、原則として南側を正面とし、南北に伽藍・堂宇が建ち並ぶのとは、異なっている。堂宇が南面していない仏教寺院は、京都・奈良では、南禅寺、薬師寺、妙伝寺、寂光寺、仏光寺、本能寺など、関東では鎌倉妙本寺がある。

 

天龍寺5方丈

















天龍寺6方丈















天龍寺16方丈















 

(天龍寺方丈)

 

天龍寺7多宝殿















天龍寺8多宝殿















 

(天龍寺多宝殿)

 

 

 

 

□境内の堂宇が「君子南面」の如く南面になっていない臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺

 

仏教寺院の堂宇は、「君子南面」の如く南面して建てられるのが基本のようだが、全ての仏教寺院がそうなっているわけではない。そういう寺院は、京都、奈良に数多く見られる。京都の場合は、地形や立地条件が大きく影響しているように思われる。

天龍寺は、参道の両側に塔頭があり、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裡、僧堂、多宝殿がある。

天龍寺の堂宇で最古のものは勅使門である。法堂は1900(明治33)年の再建。多宝殿は1934(昭和9)年の再建。鎌倉時代のころの建築様式で建てられており、後醍醐天皇の木像を祀っている。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

 

天龍寺29勅使門















 

(天龍寺勅使門)

 

天龍寺31境内図













































 

(天龍寺境内図)

 

天龍寺12庭園
















 

(天龍寺庭園)