■京都・大徳寺1(幅広い支持・紫衣事件・千利休)

 

□特定の天皇、将軍の帰依ではなく公家、大名、商人、文化人など幅広い人たちの支持を得て栄えた大徳寺

 

2012512日、仏教宗学研究会が行った「京都寺院・参拝会」の一環として、大徳寺「参拝会」を行いました。京都・大徳寺とは、臨済宗大徳寺派大本山で、龍寶山大徳禅寺という。開山は大燈国師宗峰妙詔。1325(正中2)年に開創された。京都五山のひとつになっている。豊臣秀吉が、織田信長の葬儀を行った寺院で有名である。

この寺院の境内は、ものすごく広い。ここは、臨済宗大本山の寺院なので、勅使門、三門、法堂、方丈が一直線上に並んで建っている。これは、他の臨済宗大本山の寺院と同じ。ただし、勅使門は、表門に近い所に建てられてはいるものの、表門にはなっていない。これは、他の臨済宗大本山の寺院である建仁寺、天龍寺、南禅寺の勅使門とは違っている。というのは、大徳寺の場合、勅使門、三門、法堂、方丈を囲むように塔頭が建ち並んでいる。勅使門の前にも、塔頭が建っている。この塔頭は、勅使門建立の後から建てられたものか。一般参詣人の入り口である惣門は、勅使門から見て横向きの位置に建っている。

塔頭は、特別拝観中の塔頭があり、石田三成の墓がある塔頭もある。しかし残念ながら、拝観謝絶の立て札が建てられていた。ここ大徳寺の特長のひとつは、境内の中に塔頭が所狭しと建ち並んでいることだろうか。

大徳寺の起源は、京都東山で修行していた宗峰妙超が正和4(1315)、赤松則村の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立したことが、はじまりと伝承する。花園上皇は宗峰に帰依。正中2(1325)、大徳寺を祈願所とする院宣を出している。後醍醐天皇も大徳寺を保護し、建武元年(1333)、大徳寺を京都五山のさらに上位にする綸旨を発した。ところがその後、足利尊氏が征夷大将軍に任じられて天下を取ると、後醍醐天皇と関係が深かった大徳寺は五山十刹から除かれてしまう。そのため、大徳寺は、独自の道を歩んでいく。

大徳寺は、特定の天皇、将軍の帰依ではなく、公家、大名、商人、文化人など幅広い人たちの支持を得て栄えた。室町時代以降は、一休宗純などの名僧を出した。佗茶をはじめた村田珠光などが一休宗純に参禅して以来、大徳寺は、茶の湯の世界と縁が深い。千利休など、多くの茶人が大徳寺と関係を持っている。

享徳2(1453)の火災と応仁の乱(1467-77)の戦乱で、大徳寺は当初の伽藍・堂宇の大半を焼失した。しかし一休宗純が大阪・堺の豪商らの協力を得て大徳寺を復興。近世以降も、豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けている。江戸時代初期、大徳寺は住職・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪されるなど、江戸幕府から圧迫を受けた。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。

 

大徳寺21勅使門













































 

(大徳寺勅使門)

 

大徳寺9石田三成













































 

(大徳寺石田三成墓標)

 

大徳寺1境内図















 

(大徳寺境内図)

 

 

 

□寛永4年(1627年)の勅許紫衣法度違反の紫衣事件で流罪された大徳寺住職・沢庵宗彭

 

これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った徳川三代将軍・徳川家光は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。寛永18年、事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。(フリー百科事典・Wikipediaより)

大徳寺の伽藍・堂宇は勅使門、三門、仏殿、法堂がほぼ一直線上に並び、これらの中心伽藍の周囲に二十以上の塔頭が並んでいる。勅使門は、国の重要文化財に指定されている。これは慶長年間(1596-1614)建立の御所の門を下賜され、寛永17(1640)に移築されたもの。

三門も国の重要文化財に指定されている。これは連歌師・宗長の寄進で、享禄2(1529)にまず下層のみが完成。天正17(1589)、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名付けられた。千利休は、三門の上層に自身の木像を安置した。ということは、大徳寺三門を通る人は、千利休の木像を下から仰ぎ見ることになる。これが天下人・豊臣秀吉の怒りを買い、千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられたとの逸話は、余りにも有名である。

 

大徳寺19三門















 

(大徳寺三門・金毛閣)

 

大徳寺7















 

(大徳寺表示板)