■東京・泉岳寺2(赤穂浪士四十七士の墓所2)

 

□なぜ元禄15(1702)「赤穂浪士討ち入り事件」の赤穂浪士四十七士が「義士」になったのか

 

泉岳寺は、三門から入って正面突き当たりが本堂。本堂の西側に、浅野内匠頭長矩夫婦の墓所、赤穂義士四十七士の墓所がある。昔も今も、ここは線香の煙が絶えることがない。墓所入り口前の売店で線香を販売していて、墓所に参拝する人は、ここで線香を買い、火を付けてもらう。そして束になった線香を、一本一本を墓前に供えていく。平日の昼間でも、たくさんの参拝人が来ている。女性も多いですが、ビジネスマン風の人もたくさん来ている。はとバスに乗って参拝に来る人もいます。だからこのあたりは、常に線香の煙が立ちこめている。

墓所の手前には、赤穂義士記念館が建てられていて、中に入ると、映像によって赤穂義士討ち入り物語がわかるようになっている。義士とは辞書によれば

「節義をかたく守る人。義人」「義を守り行なう士。節義の人。高節の士」

と載っている。この義士という思想は、東洋独特の思想で、韓国では、伊藤博文を暗殺した安重根を義士と呼んでいる。つまり殺人は犯罪だが、やむにやまれぬ「義の心」で行ったが故に「義士」と呼ばれているというもので、西洋的な言い方をすれば、英雄ということだろうか。

なぜ赤穂浪士が「義士」になったのか。彼等を義士にしたのは幕府ではなく、一般庶民である。

江戸幕府は、赤穂浪士たちを「武士の誉れ」とは言ったが、実際は法の裁きを以て赤穂義士四十七士全員に切腹を命じた。だから「義士」に祭り上げたのは、庶民である。

ではなぜ庶民は赤穂義士四十七士を「義士」と祭り上げたのか。単に東洋思想の「義の心であれば許される」というものだけではなかったように思われるのである。ひとつには、時代背景があるのではないか。

江戸時代は、士農工商の身分制度が絶対の時代。日本全国津々浦々に至るまで、徳川将軍を頂点とする幕藩体制の中に組み込まれていた。ほんのちょとした失態や不行跡でもあれば、たとえ大名といえども改易、流罪、減封、国替えは当たり前。松平忠輝、松平忠直、徳川忠長など、徳川将軍家の親族といえども、改易、流罪、蟄居になった。改易になれば、武士は失業し浪人になる。

江戸幕府に抵抗したキリスト教、日蓮宗不受不施派も、幕府から徹底的に弾圧された。いわば、幕府独裁体制だったわけである。

そんな江戸時代には、かわら版ぐらいはあったが、今のようにテレビ、新聞、インターネットも週刊誌もマスコミもない。国会も選挙も野党も共産党も労働組合もなかった時代。つまり、幕府権力、政治の不満のはけ口が全く無かった時代だった。

 

赤穂義士記念館1




















 

(赤穂義士記念館)

 

 

 

□地上波でもBSでもCSでも「時代劇専門チャンネル」でも見かけなくなった「赤穂浪士討ち入り事件」の忠臣蔵

 

そんな政治に対する不満のはけ口がなかった時代、浅野内匠頭長矩が、江戸城松の廊下で、吉良上野介に斬りつけた。これが、吉良上野介に対する普段の浅野内匠頭長矩の恨みを晴らす行動だったと宣伝された。さらにこれが元で切腹させられた浅野内匠頭長矩に対するちゅうぎで、大石内蔵助をはじめとする赤穂義士四十七士が吉良邸に討ち入り、吉良上野介の頸を取った。

吉良上野介とは、意地悪な性格の、まさに権力悪の象徴のような存在。その悪の権力の頸を、一身を賭して取った赤穂義士四十七士が庶民によって、英雄に祭り上げられた、ということではないだろうか。高度成長時代から平成初期にかけて、水戸黄門、遠山の金さん、大岡越前、暴れん坊将軍といった「勧善懲悪」の時代劇や、同じく「勧善懲悪」のヒーロー・ウルトラシリーズといったものが流行したが、これとよく似ているのではないだろうか。

しかし少し寂しく思うのは、今の時代、忠臣蔵も赤穂浪士も知らない若い人が多くなってきていることである。あるとき、私は若い人から「泉岳寺って、何が有名なんですか」と質問された。

私は「ここは、赤穂浪士四十七士の墓所があることで有名です」と答えた。すると「赤穂浪士って何ですか」と質問された。そこで私は「元禄15年の討ち入り事件の赤穂浪士です」と答えると、今度は「元禄15年の討ち入りって何ですか」と質問された。そこで、「時代劇の忠臣蔵のモデルになった、実際にあった事件です」と答えると、「あー、忠臣蔵って聞いたことがあります」と言われた。ここでようやく話しが通じたのである。

しかしその忠臣蔵も、テレビではほとんど見かけない。地上波でもBSでもCSでも見かけないし、あの「時代劇専門チャンネル」でも見かけない。たまに舞台演劇で見かけるくらいで、テレビ放映は皆無である。レンタルDVDでも、忠臣蔵は見かけないですねえ。であれば、若い人が赤穂浪士や忠臣蔵、赤穂義士四十七士の墓所を知る機会は大幅に減ることになる。私からすると、何か寂しい気がしますね。

 

泉岳寺4




















泉岳寺6



















 

(泉岳寺)