■鎌倉光則寺1(宿屋光則の屋敷跡1)

 

□複数の日蓮遺文のレプリカ石碑が建っている宿屋光則屋敷跡に建つ日蓮宗寺院・鎌倉光則寺

 

光則寺(こうそくじ)とは、神奈川県鎌倉市長谷にある日蓮宗の寺院で、山号寺号の正式名は行時山光則寺。旧本山は比企谷妙本寺。ここは、2011128日の仏教宗学研究会で行った「鎌倉参拝会」の時、参拝しています。

光則寺は、日蓮の立正安国論を鎌倉幕府執権・北条時頼に伝奏した宿屋光則の屋敷跡と伝承されている。日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府は、日蓮弟子の日朗も捕らえて家臣の宿屋光則邸の土牢に監禁した。しかし、監視役の宿屋光則は、日朗と日蓮を私淑するようになり、1274年(文永11年)には、鎌倉幕府が日蓮を放免した後、自邸を寺に改め、日朗を開山に迎えて寺院を創建した。それが今の光則寺と伝承されているものである。

光則寺は、江ノ電・長谷駅から徒歩で鎌倉大仏に行く途中にある。鎌倉大仏に行く途中にあるのは門で、その門から光則寺境内まで、長い参道がつづいている。光則寺境内中央には、本堂が建っているが、戸が閉まっており、カギがかかっていて中に入れません。ガラス戸越に本堂の中を見てみると、本堂の須弥壇の厨子の扉が開いており、日蓮の木像が祀られているのが見えた。その日蓮木像の後方には、板曼荼羅本尊らしきものが祀られているのが見えた。

本堂前には、文永五年四月五日の日蓮遺文のレプリカの石碑が建てられている。

 

光則寺31



































 

(文永五年四月五日の日蓮遺文のレプリカの石碑)

 

さらに、日蓮の「立正安国論御勘由来」の末文のレプリカ石碑が建てられている。

 

光則寺33




































 

(日蓮の「立正安国論御勘由来」の末文のレプリカ石碑)

 

日蓮の力強い筆の筆致を、大きな石碑のレプリカで見ると、なかなか圧巻である。日蓮の説法の迫力が、間近に迫ってくるような気がする。

さらに左手には、宮沢賢治の『雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・』の碑がある。これは宮沢賢治が日蓮宗に深く帰依したことから碑を建立したとのこと。

 

光則寺14















 

(光則寺本堂)

 

 

 

 

□石に文字を削る技術が発達する以前に建てられた(?)日蓮「土牢御書」のレプリカ石碑

 

光則寺で有名なのは、光則寺の裏手の山肌にある、日朗が幽閉されたと伝承する日朗の「土牢」である。最初、ここに行った時、入り口がどこにあるのか、よくわからなかったのですが、実に目立たないところに入り口があり、そこから裏山に向かって、延々と長い階段を登って行き、ようやく日朗の「土牢」にたどり着きます。この階段道は、実に長いです。

 

光則寺1土牢














































光則寺5土牢














































光則寺6土牢













































光則寺7土牢













































 

(日朗「土牢」につづいている階段道)

 

その日朗の「土牢」の前には、日蓮が日朗に授与した「土牢御書」のレプリカの石碑が建っている。しかし長年の歳月により、石が風化していて、文字が判読できなくなってしまっている。しかし、同じく光則寺にある文永五年四月五日の日蓮遺文のレプリカの石碑、「立正安国論御勘由来」の末文のレプリカ石碑の文字は風化しておらず、文字が判読できる。なぜ、両者は、こんなに違うのか。これはある老人に聞いた話ですが、江戸時代に造られた墓石や石碑は、文字を削る技術が未だ進歩する以前で、文字を削りやすくするため、柔らかい石を使っている。だから、長い歳月が経つにつれて、石が風化していってしまい、文字が判読できなくなってしまうのだという。

ところが、明治以降に造られた墓石や石碑は、機械で石を削る技術が発達したため、硬い石を使って文字を削っているため、長い歳月が経っても風化せず、文字が判読できるとのこと。

ということは、「土牢御書」のレプリカの石碑は明治維新以前の江戸時代に造られ、文永五年四月五日の日蓮遺文のレプリカの石碑は、明治以降に造られたということか。

 

光則寺9土牢















光則寺10土牢御書














































 

(「土牢御書」のレプリカの石碑)