■鎌倉長勝寺1(日蓮伊豆流罪後滞在跡1)

 

□日蓮が伊豆流罪赦免後に住んだ石井長勝の邸宅跡に建つ日蓮宗寺院・鎌倉長勝寺

 

長勝寺とは、日蓮が伊豆流罪を赦免になって鎌倉に帰った後に、滞在、居住していた所。ここも、2011129日の仏教宗学研究会で行った「鎌倉参拝会」の時、参拝しています。

元々、ここは本圀寺と名乗る寺院だったのですが、本圀寺が京都に移転したのち、ここの寺号を長勝寺にしたということである。この本圀寺とは、日蓮宗七大本山のひとつである本圀寺である。

長勝寺が、日蓮が伊豆流罪赦免後に鎌倉に帰ってから滞在した草庵ということは、日蓮が立宗宣言後、安房国から鎌倉に入って造った松葉ヶ谷の草庵とは、別の場所ということになる。

日蓮はさらにその後、佐渡流罪になるが、佐渡流罪赦免後に鎌倉に帰った日蓮が身延山に旅立つまでの間、とどまっていた所が、今の鎌倉・本覚寺だから、これもまた別の所になる。

本堂前には、巨大な日蓮銅像がそびえ立っている。日蓮宗寺院には、あちらこちらで見かける日蓮像である。

 

長勝寺2日蓮像













































 

(長勝寺にある日蓮像)

さて日蓮宗が刊行している本「日蓮宗本山めぐり」には、こんなことが書いてある。

1263(弘長3)5月、日蓮が伊豆流罪赦免後に鎌倉に戻り、石井長勝の邸内に草庵を結んだとき、山号を大光山、寺号を本国土妙寺とし、宗門(日蓮宗)史上で最初の寺院にしたと書いてある。さらに鎌倉幕府が滅亡し、建武の中興ののち、1345(建武1)3月、4世日静の代、光厳上皇から京都六条の地に東西二町、南北六町の広大な領地を受け、鎌倉から京都に本圀寺が移転したとある。その後、当地が荒廃していたのを日際が再興して石井山(せきせいざん)長勝寺としたとある。

しかし「大光山本国土妙寺・最初寺院説」と「光厳上皇寺領拝受説」は、ちょっと疑わしいのではないかと思う。

日蓮が最初に山号寺号を命名した寺院は、身延山久遠寺が最初であるとする説が定説であり、「大光山本国土妙寺・最初寺院説」は根拠が少々薄いのではないか。

フリー百科事典・Wikipediaによれば、本圀寺京都移転について次のように記している。

「本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)のことである。同年、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている」

ここでは、光厳上皇が光明天皇にすり替わっているが、これについては、天皇・上皇から寺領をもらったというよりも、足利幕府から寺領を安堵されたというのが、実際ではないかと思う。いくら天皇・上皇から寺領を受けたとしても、この戦乱の時代に、足利幕府から寺領を安堵されなければ、とても寺院建立など、おぼつかないからである。

 

長勝寺5















長勝寺1















 

 

(長勝寺本堂)

 

 

 

□鎌倉市教育委員会の見解は現長勝寺「大光山本国土妙寺・最初寺院説」を否定している

 

長勝寺境内には、鎌倉市教育委員会の立て看板があり、そこには

「伊豆に配流されていた日蓮が、鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵をむすんだことが当寺の発祥です」

と書いてある。宗門(日蓮宗)史上最初の寺院云々とは、全く書いてありません。だから「大光山本国土妙寺・最初寺院説」は、かなり疑わしいと思われる。

さらに当地の法華堂は日蓮造立としていますが、鎌倉市教育委員会の見解によれば、神奈川県指定文化財になっていて、室町時代末期の造営と推定されるとしています。

つまり室町時代末期のものだから、県指定文化財にはなっているが、日蓮の造立とは認めていないということです。

 

長勝寺4















 

(鎌倉市教育委員会の立て看板)