■鎌倉寿福寺1(北条政子・源実朝の墓所1)

 

2011220日に行われた仏教宗学研究会の伝北条政子・源実朝の墓所がある鎌倉・寿福寺参拝会

 

鎌倉・寿福寺とは、亀谷山(きこくざん)寿福金剛禅寺といい、臨済宗建長寺派の寺院。源頼朝が没した翌年の1200(正治2)年に栄西禅寺を開山に招き、北条政子が創建した寺院で、鎌倉五山の第三位。そして日蓮が「十一通御書」を送った、宛先のひとつでもある。ここは、2011220日の仏教宗学研究会「鎌倉参拝会」で参拝しています。

寿福寺は、1966(昭和41)322日に、国指定史跡に指定されているということで、1996(平成8)330日に建てた神奈川県教育委員会の立て看板がある。

 

寿福寺14















 

(神奈川県教育委員会の立て看板)

さらにこの他に、鎌倉市教育委員会が建てた立て看板もある。

 

寿福寺12















 

(鎌倉市教育委員会が建てた立て看板)

境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。古来から寿福寺は、鎌倉幕府尼将軍・北条政子、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の墓所があると伝承されていることで有名だが、

「源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基」(神奈川県教育委員会)

「源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔」(鎌倉市教育委員会)

となっており、いずれも「いわれる」「伝わる」となっている。源実朝、北条政子の墓とは断定していないところが面白い。学術的発掘調査は為されておらず、寺院の伝承をそのまま書いた、というところだろうか。

さて寿福寺の境内を見学して参拝しようと思ったところ、何と仏殿が立ち入り禁止になっていて、入り口に柵が立ててある。仏殿とは、他宗門で言う「本堂」に該当する堂宇ですが、その仏殿が立ち入り禁止とは、珍しい。これはどういうことでしょうか。なぜ入れないのか、何の説明もありません。禅宗系寺院にしては、珍しい閉鎖性が見られました。この寿福寺は総門から中門までの参道と裏山の墓地は一般公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていないとのこと。

 

寿福寺15
















寿福寺16













































 

(寿福寺)

 

寿福寺10立ち入り禁止














 

(立ち入り禁止の仏殿)

 

 

 

 

□境内に立ち入り禁止エリアがあるくらい禅宗系寺院には珍しい閉鎖的体質がある鎌倉・寿福寺

 

さて、それでは源実朝、北条政子の墓に参拝しようと、境内を歩いて行くと、突然。また立ち入り禁止の札が出ていました。そこには、こう書いてある。

「落石の危険があるため、この中には入れません。実朝、政子の墓へは、左に突き当たってから右に迂回して下さい。 寿福寺 鎌倉市」

 

寿福寺9















 

(立ち入り禁止の札)

何と北条政子、源実朝の墓所へ通じる道は、がけ崩れのおそれありということで通行止め。これではしょうがないですねえ。寿福寺墓地入り口から大きく迂回して、北条政子、源実朝の墓所へ向かいました。墓苑に行ってみると、一般の墓地が広々と広がっている中、山肌には、たくさんの穴ぐらがあり、そのひとつひとつに五輪塔らしきものが建てられている。

 

寿福寺3















 

(寿福寺墓苑に広がる穴ぐら)

「どれが、北条政子、源実朝の墓所なんだろうか」と思ってしまうわけだが、二人の墓所がどこにあるのか、という案内板も説明板も、どこにもない。こうなったら、ひとつひとつの穴ぐらを捜すしかありません。というわけで゜まるで「しらみつぶし」的に、穴くらをひとつひとつ捜して、一番奥の穴ぐらに、北条政子、源実朝の墓所を発見した。

 

寿福寺5政子墓














































寿福寺8














































寿福寺6













































 

(北条政子の墓)

こんな感じの寺院ですから、ここは参拝者、見学者に対して、あまり好意的とは言えません。案内板のひとつぐらい、建てておいてもいいのではないかと思いますけどねえ。境内を見学してみて、寿福寺は、とても繁栄しているとは言い難い状態。ここの本山である鎌倉・建長寺は、整備が行き届いていて、多くの人が参詣して繁栄していますが、ここはそうとは言えない。

今はこんな状態ですが、鎌倉時代は繁栄していたようですね。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。 1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は、伝実朝墓五輪塔などの存在から、おそらく南北朝時代の頃と思われる。寿福寺には2世退耕行勇をはじめ、心地覚心、円爾(弁円)、蘭渓道隆、大休正念など、多くの名僧が入寺している。

しかし今の寿福寺の閉鎖的体質には、いささか驚きました。

 

寿福寺11















 

(寿福寺参道)