1587年の要法寺・大石寺の通用申合について、大石寺は「日蓮正宗入門」の中で「大石寺を本寺とし要法寺を末寺とする本末の関係が修復されました」と書いているが、これは全くのウソ。要法寺が大石寺の末寺になったことは一度もない。1587年の通用申合は大石寺から要法寺に申し入れて実現したものである。大石寺9世日有の時代は、甲斐国・湯之奥金山の金で大石寺も経済的に潤っていた。しかし甲斐国の戦国大名・武田信玄が湯之奥金山の征服を狙って駿河国に侵攻。大石寺に軍事侵攻して大石寺から湯之奥金山の利権を取り上げてしまった。これにより大石寺は経済力の源泉を奪われ、急速に衰微していく。方や要法寺は戦国時代からかなりの経済力を持っていた。1536年の天文法華の乱で上行院・住本寺が焼失、京都全土が灰燼に帰したのに、1550年には自力で上行院・住本寺を合併して要法寺を建立していることからしても明らか。比叡山延暦寺、東大寺、知恩院の大寺院でも、戦国時代の焼失から再建するには百年以上かかっていて、さらに江戸幕府の助力を得ている。なぜ要法寺が経済力を持っていたのか。それは出雲国・石見(大森)銀山の銀である。開山・日尊の時から出雲地方に末寺を持っており、1533年、灰吹法の確立で銀の生産量が増加するに伴って、出雲地方の要法寺門流の教線も拡大。当時で既に17ヶ寺以上を持っていた。石見銀山の銀が要法寺末寺に入り、さらに末寺から要法寺に上納金・供養金が入ることによって、要法寺は大きな経済力を持っていた。人的資源も経済力も枯渇して自力更生する力を失っていた大石寺は、ここに目を付け、要法寺との通用で勢力回復を謀った。要法寺から僧侶・信者が大石寺に流入すれば、同寺に供養金が大石寺に入ることになるからだ。これによって大石寺から要法寺に通用を申し入れて実現したもの。要法寺から大石寺に通用を計る理由もメリットも全くない。歴史上、要法寺が大石寺の末寺になったことは一度もない。したがって「日蓮正宗入門」の「大石寺を本寺とし要法寺を末寺とする本末の関係が修復されました」との記述は全くのウソ。造仏読誦義といっても、普段の勤行で法華経一部を読誦していたわけではない。法華経一部読誦は、千部会や大きな行事の時だけである。造仏とは言っても、釈迦如来像を確かに本尊と立てていたが、同寺に板曼荼羅本尊・日蓮像も祀っていた。これは身延山久遠寺、池上本門寺等、日蓮宗の化儀と同じである。要法寺の場合、かつては今の開山堂に釈迦如来像が祀られて釈迦堂と称していたが、釈迦如来像撤去後は、日興の曼荼羅本尊と日尊像が祀られている。日蓮板本尊と日蓮像が祀られている本堂は、造仏読誦時代から今に至るまで同じである。