保田妙本寺貫首は、日蓮正宗帰一以前は小泉久遠寺と両山一首制の時が多かった。教学では「万年救護の大本尊」日蓮本懐説、保田妙本寺貫首の血脈相承を唱えた歴代貫首はいない。13331405年まで大石寺vs日郷門流(保田妙本寺・小泉久遠寺)72年紛争があった。148297日、大石寺9世日有(1402-1482)の代、大石寺本尊堂にて大石寺門流vs北山本門寺・日郷門流の血脈問答が行われた。(富士宗学要集9p51-53)ここまでは大石寺と保田妙本寺は不和だったが、保田妙本寺11代日要(1436-1514)が大石寺9世日有と交流があり、「新池抄聞書」に「日有云く、また云く大石は父の寺、…父の大石は本尊堂、…此は能生、即本因本果本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(富士日興上人詳伝p294-295)と、大石寺9世日有説法を書きとどめている。これは「戒壇の大本尊」が大石寺9世日有の偽作である証拠のひとつである。このあたりから保田妙本寺教学の大石寺への同化がはじまり、「東我西辰」の保田妙本寺14代日我は「観心本尊抄抜書」で「久遠寺の板本尊、今大石寺にあり。大聖御存日の時の造立也」(富士宗学要集4p170)と書いて、「戒壇の大本尊」日蓮造立説を唱えるなど、完全に大石寺教学に同化している。江戸時代には貫首・日濃の「万年救護の大本尊」質入れ事件が起きている。日濃は歴代貫首から徐歴されている。明治以降は、日蓮宗勝劣派→日蓮宗興門派→本門宗→日蓮宗→単立と歩み、1957(昭和32)年、日蓮正宗に帰一合同している。機縁になったのは創価学会の石田次男理事の折伏で、ここから保田妙本寺の日蓮正宗帰一合同に発展した。1966220日、保田妙本寺50代富士日照氏が82才で死去。54日、保田妙本寺執事だった鎌倉寛全氏が51代住職になった。この人が後の鎌倉日桜氏で、19955月に、保田妙本寺を日蓮正宗から離脱せしめた人である。