なぜ保田妙本寺51代住職・鎌倉日桜氏(1908-2009)は、日蓮正宗からの離脱を決断したのか。保田妙本寺が日蓮正宗から離脱したのは199554日のことだが、住職・鎌倉日桜氏は、1972年ころから日蓮正宗からの離脱に傾斜して行っていた。第一の理由は、鎌倉日桜氏が日蓮正宗から外様扱いされて、日蓮正宗中枢から疎外されていたことに大きな不満を持っていた。第一の疎外は、保田妙本寺は日蓮正宗に帰一合同した後も、日蓮正宗本山格だったが、本山格は能化の僧侶が務めるのが慣例。しかし1966年に保田妙本寺住職になった鎌倉日桜氏は、当時はすでに58才の中核僧侶だったが、能化ではなかった。その後、松本勝弥氏らのグループが保田妙本寺に集結して、日蓮正宗・創価学会が引き留め工作に出て、197212月に能化に昇進。創価学会から客殿・本堂修復の供養・寄進を受けて、この時は一旦、離脱を翻した。鎌倉日桜氏は日蓮正宗宗務院、創価学会、松本勝弥氏、旧来からの檀家、1980年代以降、保田妙本寺についた信者に対して、二枚舌、三枚舌を使っていた。中でも注目すべきは保田妙本寺信徒に対して「大石寺をぶっ飛ばす文書が保田妙本寺にある。本には載っていない、私だけが知っている文書」と言っていた。これは「戒壇の大本尊」大石寺9世日有偽作の証拠である「新池抄聞書」のことではないかと思われる。しかしこれは大石寺59世堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」に載っている。第二の疎外は、19788月の佐藤日成重役死去後、慣例を破って椎名法英氏が重役に選ばれたこと。第三の疎外は、1979722日の「緊急重役会議」に、鎌倉日桜氏は能化であったにもかかわらず、呼ばれなかったこと。第四の疎外は、1993年の早瀬日慈重役の死去後、格下の吉田日勇氏が重役になったこと。この2年後の19955月、保田妙本寺は日蓮正宗から離脱する。